「敦賀空襲」の版間の差分

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以上は『敦賀空襲・戦災誌』や『敦賀の歴史』によった。
 
上の敦賀大空襲の際に敦賀市街を米機が東から西へ横切ったという叙述は事実誤認である。第20航空軍の7月12日の敦賀爆撃の作戦任務報告書(『福井県史資料編12上近現代三』)によれば、琵琶湖の沖島を進入点とし、直進して敦賀上空で爆弾投下した後、右旋回して離脱し、伊勢湾から太平洋に抜けている(航路図は『同書』53頁)。米軍機が東から西へ横切ったと記録されているのは、当日の天候が悪く、地上側からみて発火場所の順を追って想像により航路を記述したことによる。なお外部リンクにある「敦賀大空襲時の米軍機経路図」には確かに航空機が敦賀上空を東から西に横切ったように書かれているが、この航路図は7月11日の若狭湾(舞鶴)への機雷投下を目的とした航路図(任務262号)であり、敦賀大空襲(任務265号)のものではない。
また、敦賀上空での地上からの対空砲火について、作戦任務報告書では、「対空砲火はなし、あるいは重中火器によるすこぶる微弱で不正確なもの」であり、「対空砲火による損失、損傷した機はない」と報告されている。