「タイノ族」の版間の差分

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タイノ人という呼称は、1492年にコロンブスが到着した時点では存在せず、それぞれの島ごとに自称していた。たとえばプエルト・リコ島のタイノ人はボリンクエン、バハマ諸島のタイノ人は小さい島を意味するルカヨを自称していた。タイノという単語はタイノ語で「善」や「高貴」を意味しており、別の民族である{{仮リンク|グアナハタベイ人|en|Guanajatabey}}や[[カリブ族]](アイランド・カリブ人)と区別する自称として使われていた。これがのちに学者によってタイノ人として総称されることになった{{Sfn|ラウス|2004|pp=7-8}}。
 
タイノ人は、大西洋を渡ってきたコロンブスの船団に最初に接触した西半球の人々だった。スペイン人との間に、[[コロンブス交換]]とも呼ばれる病気、穀物、工芸品、習慣などのやりとりがあり、病気や強制労働によって人口が減少した{{Sfn|ラウス|2004|ppp=36}}。長らく絶滅したとされてきたが、DNAの調査によってタイノ人に連なる人々がいることが判明した<ref name=natgeo20191020 />。
 
== 地理 ==
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タイノ人が来る以前の西インド諸島は、[[紀元前7000年]]から[[紀元前6000年]]には中米や南米から人間が移住していた<ref name=natgeo20201226 />。[[紀元前4000年]]頃に石器時代またはパレオ・インディアン時代が始まり、[[中米]]から移住したカシミロイドと呼ばれる民族集団によって[[剥片石器]]が使われていた{{Sfn|ラウス|2004|pp=74, 78-79}}。カシミロイドはイスパニューラ島を中心に陸型の生活をおくり、季節に応じて移動していた{{Sfn|ラウス|2004|pp=93-94, 103}}。カシミロイドの狩猟によって、イスパニョーラ島のナマケモノなどの大型動物は絶滅したと推測される{{Sfn|ラウス|2004|pp=107-108}}。
 
[[紀元前2000年]]頃に原始的時代またはメソ・インディアン時代が始まり、南米から移住したオルトイロイドと呼ばれる民族集団によって[[磨製石器]]・[[骨角器|骨器]]・貝殻を研磨した器具が使われていた{{Sfn|ラウス|2004|pp=74, 78-79}}。オルトロイドはプエルト・リコ島を中心に型の生活をおくり、海岸線に定住した{{Sfn|ラウス|2004|pp=102101-103}}。
 
カシミロイドとオルトイロイドは[[モナ海峡]]をはさんで生活しており、交流があったと推測される。カシミロイドの技術である[[フリント]]を素材にした道具の痕跡がプエルト・リコ島でも発見されている{{Sfn|ラウス|2004|pp=103-104}}。
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首長になる資格は性別に関係はなかった。首長は専用の家に住み、木製の椅子や大きなカヌー、輿のような乗り物を持っていた。村人の生活を組織し、物資の貯蔵、他の村との交流などの責任を負った。余剰物資は専用の建物に貯蔵され、村人に[[再配分|配分]]された。祭りにおいては宴会と踊りを主宰し、歌唱の指揮をした{{Sfn|ラウス|2004|p=24}}。
 
宣戦布告の会議は首長と貴族が出席し、攻撃の先頭に立つ首長が選ばれ、貴族が護衛をした。戦いでは身体を赤く塗り、セミの小像を額につけて踊りを踊った。武器は{{仮リンク|マカナ|en|Macana}}と呼ばれる棍棒、槍、弓矢が使われた{{Sfn|ラウス|2004|p=25}}。
 
== 影響 ==