「バンブーメモリー」の版間の差分

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== 特徴・エピソード ==
*1991年の宝塚記念では実況の[[杉本清]]から、「今年もあなたの、私の夢が走ります。あなたの夢は[[メジロマックイーン]][[メジロライアン|ライアン]][[ホワイトストーン|ストーン]]か。'''私の夢はバンブーです'''」と、後に杉本の名物実況となる「私の夢(馬券)」対象馬として初めて指名された。しかし負けても3着や4着あたりならさして注目されないところを結果は最下位入線の惨敗で、杉本はみんなからからかわれる羽目となった。杉本は次の週に厩舎で武邦彦に「邦ちゃん堪忍してえな、大恥かいたやんか」と愚痴をこぼしたが、邦彦はバンブーメモリーを世話しながら「走らんかったね」と素っ気なかったと後に自著で記している<ref>[[#杉本]] p. 209</ref>。
*島田によると、レースで追えなくなったりするので個々の馬に特別な愛情をかけない主義の武豊が例外的に愛情をかけていた馬で<ref name="shimada"/>、以下のようなところがあったという。
**レースでは常に行きたがる癖があったが、武豊によればそれは気性が悪いのではなく、「'''自分の足が速いことを知っていて、それを見せたくていつもウズウズしている'''」<ref name="shimada"/>とのこと<ref name="shimada9501">[[#島田1995]] p. 122</ref>。1990年のスプリンターズステークスではそのことがプラスに作用したが<ref name="van"/>、調教でも同じ感じで厩舎前でまたがった瞬間にその気配が感じられ、調教馬場に入った時にピークに達して全力疾走する有様<ref name="shimada9501"/>。その暴走癖で[[栗東トレーニングセンター]]の調教レコードを二度マークしたが、その時の調教でまたがっていたのが、馬を制御することでは定評のあった[[河内洋]]であった<ref name="shimada9501"/>。前述の1991年宝塚記念で騎乗依頼を受けた[[岸滋彦]]は、「バンブーメモリー特別メニュー」なる筋肉トレーニングをジムでこなしたが、端的に言えばそういうトレーニングが必要なほどに引っ張っていく力がすさまじい代物であった<ref name="shimada9501"/>。それゆえに、気合をつけて追走するのが基本の短距離のレースでは、長手綱でハミを外しながら乗るという方策が取られていた<ref name="shimada9501"/>。引退式でも「暴走」していたという<ref name="shimada9501"/>。