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'''周 捨'''(しゅう しゃ、[[469471年]] - [[524526年]]<ref>後述の白渦の事件に登場する南津校尉は普通7年に設置された官とされており、普通5年没を通説とする周捨の没年には疑いを入れられている。</ref>)は、[[斉 (南朝)|南朝斉]]から[[梁 (南朝)|梁]]にかけての[[学者]]・[[官僚]]・[[政治家]]。[[字]]は昇逸。[[本貫]]は[[汝南郡]][[汝南県|安成県]]。
 
== 経歴 ==
南朝斉の中書侍郎の[[周顒]]の子として生まれた。幼くして聡明で、成長すると広く学問に通じ、とくに経典の解釈に詳しかった。斉の太学博士を初任とし、後軍行参軍に転じた。[[建武 (南朝斉)|建武]]年間、尚書僕射[[江祏]]が[[北魏]]から亡命してきた呉包を招いて[[儒学]]を講義させると、周捨は呉包と議論してその言辞がすぐれていたため、「口弁」と渾名された。[[王亮]]が丹陽尹となると、周捨は召し出されて主簿となり、行政事務の多くを任された。太常丞に転じた。
 
南朝梁が建てられると、周捨は奉常丞となった。[[蕭衍|武帝]]が即位すると、吏部尚書の[[范雲]]の推薦を受けて、尚書祠部郎に任じられた。の儀礼の多くは、周捨が提案したものが採用された。ほどなく後軍記室参軍・[[江寧区|秣陵]]県令として出向した。入朝して中書通事舎人となり、太子洗馬・散騎常侍・中書侍郎・鴻臚卿を歴任した。ときに王亮が罪をえて蟄居し、旧友でかれを訪れるものもいなかったが、ひとり周捨は以前と変わらずに王亮とつき合った。王亮が死去すると、周捨は自ら通夜や葬儀を営み、当時の人に賞賛された。
 
尚書吏部郎・太子右衛率・右衛将軍を歴任し、官職はたびたび変わったが、つねに省内にとどまって、休みに自邸に下がることもまれであった。国史の編纂や儀礼・制度・法律の制定、軍事の参謀などの任務をひとりで引き受けた。日夜武帝に近侍して、機密に参与すること20年あまり、側近を離れることがなかった。口達者でよく諧謔を飛ばしていたが、機密に関することは一言も漏らすことがなかった。生活は質素で、私室は貧者のようであり、官府に入っても、周捨のいるところは埃がたまっていた。荻を障子代わりにして、壊れても修繕しなかった。右衛将軍となると、母が死去したため官職を辞して喪に服したが、すぐに明威将軍・右驍騎将軍として起用された。服喪が終わると、[[侍中]]に任じられ、歩兵校尉を兼ねた。着任しないうちに、員外散騎常侍・太子左衛率に転じた。ほどなく散騎常侍・州大中正の任を加えられ、太子詹事に転じた。
 
[[524526年]]([[普通 (梁)|普通]]57年)、南津校尉の郭祖深が[[武陵郡]][[太守]]<ref>『梁書』によると白渦の地位は武陵郡太守、『南史』によると始興相とされる。</ref>の白渦の手紙を入手し、周捨に銭100万を贈っていたことを、津司が奏聞した。周捨は御史の弾劾を受けて免官された。まもなく右驍騎将軍・知太子詹事に転じた。この年のうちに死去した。享年は56。侍中・護軍将軍の位を追贈された。[[諡]]は簡子といった。
 
== 子女 ==
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[[Category:中国南朝の人物]]
[[Category:汝南周氏|しや]]
[[Category:469471年生]]
[[Category:524526年没]]