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'''周 捨'''(しゅう しゃ、[[
== 経歴 ==
南朝斉の中書侍郎の[[周顒]]の子として生まれた。幼くして聡明で、成長すると広く学問に通じ、とくに経典の解釈に詳しかった。斉の太学博士を初任とし、後軍行参軍に転じた。[[建武 (南朝斉)|建武]]年間、尚書僕射[[江祏]]が[[北魏]]から亡命してきた呉包を招いて[[儒学]]を講義させると、周捨は呉包と議論してその言辞がすぐれていたため、「口弁」と渾名された。[[王亮]]が丹陽尹となると、周捨は召し出されて主簿となり、行政事務の多くを任された。太常丞に転じた。
南朝梁が建てられると、周捨は奉常丞となった。[[蕭衍|武帝]]が即位すると、吏部尚書の[[范雲]]の推薦を受けて、尚書祠部郎に任じられた。
尚書吏部郎・太子右衛率・右衛将軍を歴任し、官職はたびたび変わったが、つねに省内にとどまって、休みに自邸に下がることもまれであった。国史の編纂や儀礼・制度・法律の制定、軍事の参謀などの任務をひとりで引き受けた。日夜武帝に近侍して、機密に参与すること20年あまり、側近を離れることがなかった。口達者でよく諧謔を飛ばしていたが、機密に関することは一言も漏らすことがなかった。生活は質素で、私室は貧者のようであり、官府に入っても、周捨のいるところは埃がたまっていた。荻を障子代わりにして、壊れても修繕しなかった。右衛将軍となると、母が死去したため官職を辞して喪に服したが、すぐに明威将軍・右驍騎将軍として起用された。服喪が終わると、[[侍中]]に任じられ、歩兵校尉を兼ねた。着任しないうちに、員外散騎常侍・太子左衛率に転じた。ほどなく散騎常侍・
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== 子女 ==
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[[Category:中国南朝の人物]]
[[Category:汝南周氏|しや]]
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