「徳川秀忠」の版間の差分

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また、秀吉の養女・小姫(春昌院)との婚姻については、小姫の実父である信雄と秀吉が仲違いして信雄が除封されたことにより離縁となり、翌天正19年(1591年)に7歳で病死したとされる。ただし、当時は縁組の取決めをすることを「祝言」と称し、後日正式に輿入れして婚姻が成立する事例もあることから、婚約成立後に信雄の改易もしくは小姫の早世によって婚姻が成立しなかった可能性も指摘されている<ref>{{Cite journal|和書|author=片山正彦|title=書評 福田千鶴著『淀殿 -われ太閤の妻となりて-』|publisher=織豊期研究会|journal=織豊期研究|issue=9号|year=2007}}/所収:{{Harvnb|片山|2017|pp=78-80}}</ref>。
 
[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]では[[榊原康政]]・[[井伊直政]]の後見を受けつつ、名護屋へ出陣した家康の替わりに関東領国の統治を行う。文禄元年に秀吉の母[[大政所]]が死去した際には弔問のため上洛し、9月には中納言に任官して「'''江戸中納言'''」と呼ばれる。また同年には[[多賀谷重経]]の出陣拒否を理由に、秀吉は居城の[[下妻城]]破却を秀忠に命じている。文禄2年12月には[[大久保忠隣]]が秀忠付になる。
 
[[文禄]]4年([[1595年]])7月に[[秀次事件]]が起きた際、京に滞在していた秀忠は伏見に一時移動している。このことについて、後世の『創業記考異』等には、秀次が秀忠を人質にしようとしたため忠隣が避難させたとある。秀次の切腹により[[豊臣秀頼|お拾]]が秀吉の後継者に定まると、9月17日にお拾の生母の[[淀殿]]の妹である[[崇源院|江]]が秀吉の養女として秀忠と再婚する<ref group="注釈">江は[[近江国]]の戦国大名[[浅井長政]]の三女で、母は織田信長の妹[[お市の方|市]]。江は天正14年から文禄元年頃に秀吉の養子・[[豊臣秀勝]]に嫁いでいたが、文禄元年に秀勝は死去していた。</ref>。また秀吉から、[[羽柴氏|羽柴]]の[[名字]]を与えられる<ref name="murakawa"/>。