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| 画像説明 = 徳川秀忠像(松平西福寺蔵)
| 時代 = [[安土桃山時代]] - [[江戸時代]]前期
| 生誕 = [[天正]]7年[[4月7日 (旧暦)|4月7日]]([[1579年]][[85312日]]
| 死没 = [[寛永]]9年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]([[1632年]][[3月14日]] (52歳)
| 改名 = 長松(長丸)→竹千代(幼名)→秀忠
| 別名 = 江戸中納言、江戸右大将
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=== 出生から後継者 ===
[[ファイル:Hidetada-ido.JPG|thumb|right|220px|秀忠が産湯を使ったと伝わる井戸]]
[[天正]]7年[[4月307日_(旧暦)|4月307日]]([[1579年]][[85312日]])、[[徳川家康]]の三男として[[遠江国]][[浜松市|浜松]]に誕生する。母は[[側室]]の[[西郷局]]。母の実家・[[西郷氏#三河西郷氏|三河西郷氏]]は[[土岐氏]]一族で、[[室町時代|室町初期]]には[[三河国|三河]][[守護代]]を務めたこともある名家であり、当時も三河国の有力な[[国人]]であった。乳母・[[大姥局]]によって養育される。同母弟に[[関ヶ原の戦い]]で活躍した[[松平忠吉]]がいる。
 
秀忠が誕生してから5か月後に長兄・[[松平信康|信康]]が[[切腹]]している。次兄である[[結城秀康|秀康]]は[[豊臣秀吉]]に養子として出され、のちに[[結城氏]]を継いだため、母親が三河国の名家出身である秀忠が実質的な[[嫡男|世子]]として処遇されることになった。
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また、秀吉の養女・小姫(春昌院)との婚姻については、小姫の実父である信雄と秀吉が仲違いして信雄が除封されたことにより離縁となり、翌天正19年(1591年)に7歳で病死したとされる。ただし、当時は縁組の取決めをすることを「祝言」と称し、後日正式に輿入れして婚姻が成立する事例もあることから、婚約成立後に信雄の改易もしくは小姫の早世によって婚姻が成立しなかった可能性も指摘されている<ref>{{Cite journal|和書|author=片山正彦|title=書評 福田千鶴著『淀殿 -われ太閤の妻となりて-』|publisher=織豊期研究会|journal=織豊期研究|issue=9号|year=2007}}/所収:{{Harvnb|片山|2017|pp=78-80}}</ref>。
 
[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]では[[榊原康政]]・[[井伊直政]]の後見を受けつつ、名護屋へ出陣した家康の替わりに関東領国の統治を行う。文禄元年に秀吉の母[[大政所]]が死去した際には弔問のため上洛し、9月には中納言に任官して「'''江戸中納言'''」と呼ばれる。また同年には[[多賀谷重経]]の出陣拒否を理由に、秀吉は居城の[[下妻城]]破却を秀忠に命じている。文禄2年12月には[[大久保忠隣]]が秀忠付になる。
 
[[文禄]]4年([[1595年]])7月に[[秀次事件]]が起きた際、京に滞在していた秀忠は伏見に一時移動している。このことについて、後世の『創業記考異』等には、秀次が秀忠を人質にしようとしたため忠隣が避難させたとある。秀次の切腹により[[豊臣秀頼|お拾]]が秀吉の後継者に定まると、9月17日にお拾の生母の[[淀殿]]の妹である[[崇源院|江]]が秀吉の養女として秀忠と再婚する<ref group="注釈">江は[[近江国]]の戦国大名[[浅井長政]]の三女で、母は織田信長の妹[[お市の方|市]]。江は天正14年から文禄元年頃に秀吉の養子・[[豊臣秀勝]]に嫁いでいたが、文禄元年に秀勝は死去していた。</ref>。また秀吉から、[[羽柴氏|羽柴]]の[[名字]]を与えられる<ref name="murakawa"/>。
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[[ファイル:Hidetada.jpg|thumb|徳川秀忠像([[徳川記念財団]]蔵)]]
慶長8年([[1603年]])2月2912日に征夷大将軍に就いて[[江戸幕府|幕府]]を開いた家康は、[[徳川氏]]による将軍職世襲を確実にするため、嫡男・秀忠を'''[[近衛大将|右近衛大将]]'''にするよう朝廷に奏上し、慶長8年([[1603年]])4月16日に任命された(すでに大納言であり、父・家康が左近衛大将への任官歴があったので、すぐに認められた)。それまでの武家の近衛大将任官例は[[武家棟梁]]にほぼ限られ、征夷大将軍による兼任が例とされていた。これにより、徳川家の将軍職世襲がほぼ内定し、また秀忠の徳川宗家相続が揺るぎないものとなった。この時期の秀忠は'''江戸右大将'''と呼ばれ、以後代々の[[徳川将軍家]]において'''右大将'''といえば、将軍家世嗣をさすこととなる。
 
関ヶ原の戦いの論功行賞の名の下に、豊臣恩顧の大名を西国に移した徳川家は、東海・関東・南東北を完全に押さえ、名実ともに関東の政権を打ち立てた。2年後の慶長10年([[1605年]])、家康は将軍職を秀忠に譲り、秀忠が第2代征夷大将軍となることとなる。
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慶長19年の方広寺鐘銘事件では家康へ頻繁に近臣を派遣して連絡を密にしており、秀忠も家康と同様に豊臣家に対して怒りを示している。その後、勃発した[[大坂の陣#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]では出陣しようとする家康へ利勝を派遣して、自分が出陣するので家康は関東の留守を預かることを要請している。これに要請を家康は容れずに、自身がまず上洛して情勢を確認して問題なければ処置をして帰国するが、もし豊臣方が籠城等を行うなら秀忠の名で攻め滅ぼすので兵を派遣して欲しいと求めたのに対して、使者の利勝がその際は秀忠が兵を率いて上洛すると提案して容れられている。
 
10月23日、江戸を出陣した秀忠は行軍を急ぎ、家康より数度徐行を求められるが応じず、11月7日に近江国永原(滋賀県野洲市永原)に到着すると、後軍が追い着くまで数日逗留している。11月11日に二条城で家康に面会した秀忠は、自身の到着まで出陣しなかったことに感謝の念を示した。その後の城攻めでは度々家康の陣所に出向い総大将としめの方針を定めている。12月4日の[[真田丸の戦い]]翌日には、家康の和議方針に異を唱えて総攻撃を主張したがするも容れられず、「奇怪」と強い不満を示して本多正信に諌められた。12日には家康と共に各所の陣場を巡検したが、この際に大坂城中より多数の鉄砲が放たれた。また和議締結講話、25日に家康が京へ帰った後は大阪城堀埋め立ての現場指揮を行った。慶長20年([[1615年]])の、埋め立わゆる「夏の陣」では豊臣家重臣・[[大野治房]]によっが概ね完了し本陣を脅かされ翌年1月19日。豊臣家滅亡後、家康ととも伏見へ帰っ[[武家諸法度]]・[[禁中並公家諸法度]]などの制定につとめた。
 
慶長20年([[1615年]])の夏の陣では4月10日に江戸を発して21日に伏見に着陣、この間14日に使者を遣わして家康へ自身の到着まで開戦を控え、先手に自身を任じることを求めた。これに対して家康は今度の戦は秀忠に任せる旨を伝えている。26日に秀忠は二条城で家康と面談して28日の出陣を決定したが、27日に家康より延期を求められ、その後[[古田重然]]家臣[[木村宗喜]]らが京への放火を目論んだとして捕縛された。その後、再度面談して5月3日の出陣となったが、当日は雨天故に更に5日へ延期された。
 
5日に出陣した秀忠は7日に天王寺・岡山の戦いに参加、茶臼山方面を担当した家康に対して岡山口の大将を担当したが、これは冬の陣の配置を踏襲したと見られる。合戦では豊臣家重臣・[[大野治房]]と戦う。合戦の翌日、豊臣方からの秀頼助命嘆願に接した家康は秀忠の判断に従うとした結果、秀忠は嘆願を拒否して切腹を迫り、これにより豊臣家は滅亡した。翌9日に秀忠は伏見へ戻り、その後に家康とともに7月7日に[[武家諸法度]]、同17日に[[禁中並公家諸法度]]を発布する。発布後の19日に秀忠は伏見を立ち、8月4日に江戸へ帰った。
 
[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])1月21日夜に家康が発病した際には、使者が12時間で江戸へ報を伝えている。秀忠は2月1日に江戸を発して翌日に駿府へ到着、以後は4月17日の家康死去まで駿府に滞在して父の死を看取り、22日に葬られた久能山に参拝後、24日に江戸へ帰った。また家康の後を追うように正信も6月に亡くなっている。
 
=== 親政 ===
家康死後、家康のブレーンとして駿府政権を支えてい重臣たちの内、[[本多正純]]・[[秋元泰朝]]・[[松平正綱]]、[[金地院崇伝]]・[[天海]]・[[林羅山]]のように江戸政権に合流した者がいる一方、親藩の[[付家老]]になったり、それまでの特権を失い一家臣や御用商人の立場に戻った者もいる。家康遺臣の一部を幕閣に合流させた秀忠は将軍親政を開始し、これまで江戸政権を支えた近臣である[[酒井忠世]]・[[土井利勝]]ら[[老中]]を幕府の中枢として、自らリーダーシップを発揮する。また駿府にいた家康旗本の受け皿としてため、江戸に駿河町が新たに整備された。
 
家康死去の同年元和2年にはキリシタン禁制に関連して、中国商船以外の外国船寄港を[[平戸]]・[[長崎港|長崎]]に限定した。また子の国松(徳川忠長)を甲府藩主に任じた一方、家康が生前に勘当した弟・[[松平忠輝]]を、改めて改易・配流に処した。6月には軍役改定を布告し、親政開始に際して改めて自身の軍権を誇示した。
 
元和3年5月26日に秀忠は諸大名へ所領安堵の黒印・朱印状を与え、同年には寺社への所領安堵状を発している。またこの年に秀忠は諸勢を率いて上洛し、7月21日に参内する。この上洛で秀忠は畿内周辺の大名転封、朝鮮やポルトガル人との面談、畿内周辺の寺社への所領安堵を行い、それまで家康が行っていた朝廷・西国大名・寺社・外交交渉の権限を自身が引き継ぐことを示した。翌元和4年には[[熊本藩]]家中の内紛である[[牛方馬方騒動]]を裁いた。
 
元和5年に秀忠は再び上洛して、伏見・京のみならず大坂・尼崎・大和郡山を巡っている。この間、[[およつ御寮人事件]]に関係した公家の配流、[[福島正則]]の改易、大坂の天領化と大坂城の修築と伏見城の破却、[[徳川頼宣]]の駿府から紀伊への転封を始めとした諸大名の大規模な移動を命じた。元和6年6月18日、娘の和子が中宮として後水尾天皇に入内する。9月6日、秀忠の2人の男児竹千代・国松は共に元服して、家光・忠長と名乗る。
 
元和8年1月には諸大名へ妻子を江戸に住まわせることを内々に、また大身家臣の人質も江戸に送ることを命じた。8月には[[最上騒動]]を受けて[[最上義俊]]を、また[[山形城]]受け取りに出向いた本多正純も10月に同地で改易を言い渡された。
 
また[[福井藩]]の[[松平忠直]]は、元和6年・8年に病を理由に参勤交代の中断や滞留を行っており、特に後者は江戸普請中の大名に越前出兵の噂が広がり、密かに出兵準備の指示を国元に命じるようになる。このような状況下で秀忠は元和9年2月に忠直へ隠居を迫り、忠直はこれに応じて隠居となり、弟の[[松平忠昌]]が家督を継承した。
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[[寛永]]3年([[1626年]])10月25日から30日まで後水尾天皇の[[二条城]]への行幸の際には秀忠と家光が上洛、拝謁した。寛永6年([[1629年]])の[[紫衣事件]]では朝廷・寺社統制の徹底を示し、寛永7年(1630年)9月12日には孫の女一宮が天皇に即位し([[明正天皇]])、秀忠は天皇の[[外戚]]となった。
 
寛永8年([[1631年]])には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じるが、このころから体調を崩し、[[寛永]]9年[[1月24日_(旧暦)|1月24日]]([[1632年]][[3月14日]])に[[薨去]]。享年53(54({{没年齢52)2|1579|5|2|1632|3|14}})
 
家光に対して{{Quotation|''「当家夜をありつの日浅く、今まで創建せし綱紀政令、いまだ全備せしにあらざれば、近年のうちにそれぞれ改修せんと思ひしが、今は不幸にして其の事も遂げずなりぬ、我なからむ後に、御身いささか憚る所なく改正し給へば、これぞ我が志を継ぐとも申すべき孝道なれ」(『徳川実紀』)''}}との遺言を残している。
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== 戦績 ==
=== 関ヶ原の戦い ===
秀忠は[[関ヶ原の戦い]]が[[初陣]]であった。彼は3万8,000人の大軍を率いながら、わずか2,000人が籠城する[[信濃国|信州]][[上田城]]を攻め、[[真田昌幸]]の前に大敗を喫したと言われている([[上田合戦#第二次上田合戦|上田合戦]])。このときの惨敗ぶりを、「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」(『[[烈祖成蹟]]』)と記されている。この時の秀忠隊は、当時の慣例により作戦対象の[[信濃国|信濃]]と[[会津]]に隣接する封地を持つ徳川譜代で構成していた<ref group="注釈">ただし、[[相模国|相模]]に所領を持つ大久保忠隣・本多正信は秀忠の補佐として、秀忠の旗下にあった。</ref>。ただし同時代史料には大規模な戦闘や大敗の記述は無く、刈田を起因とする小競り合いが家譜類に記されているのみである。
 
秀忠が上田城攻囲に時間をかけたこと(および大敗したとされること)について、「当初より[[美濃国|美濃]]方面に向かっていた秀忠軍に対して、真田が巧妙に挑発し、それに乗せられた結果として秀忠は関ヶ原の会戦に間に合わなかった」「大局への影響の少ない上田城にこだわった秀忠は器量不足だった」「武断派の[[榊原康政]]・[[大久保忠隣]]が策士の[[本多正信]]を押し切って秀忠を上田城攻撃に駆り立てた」といった図式が小説等で採用されることがある<ref group="注釈">[[司馬遼太郎]] 『[[関ヶ原 (小説)|関ヶ原]]』 (1966年)など。</ref>。
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しかし、『浅野家文書』によると、秀忠に同行した[[浅野長政]]に宛てて「中納言、信州口へ相働かせ侯間、そこもと御大儀侯へども御出陣侯て、諸事御異見頼入侯」とあることから、家康の当初の命令は信州平定であり、秀忠はそれに従っていたにすぎない。『真田家文書』では[[真田信之|真田信幸]]に対して秀忠は8月23日付の書状で昌幸の籠もる上田城を攻略する予定であることを伝え、[[小県郡]]に集結するように命じている。秀忠は[[小山城|小山]]を出陣してから緩やかに行軍し、上田攻略の前線基地となる[[小諸城]]には9月2日に着陣した<ref name="真田昌幸p209">{{Cite book|和書|author=柴辻俊六|authorlink=柴辻俊六|series=人物叢書|title=真田昌幸|publisher=吉川弘文館|year=1996|page=209}}</ref>。
 
一方、[[岐阜城の戦い|岐阜城陥落]]が早かったことから、[[江戸]]の家康は戦略を急遽変更し、秀忠軍に上洛を命じる使者を送り、自身も[[9月1日 (旧暦)|9月1日]]に出陣し[[東海道]]経由で美濃の前線に向かった。しかし秀忠への使者の行程が豪雨による川の氾濫のため大幅に遅れ、秀忠が実際に上洛命令を受けたのは8日であった(森忠政宛秀忠書状<ref>黒田基樹『「豊臣大名」真田一族』洋泉社、2016年</ref>)。秀忠は急いで美濃に向かうが、当時の道幅の狭い隘路が続く[[中山道]]は大軍の行軍には適さない上に、その後も川の氾濫で人馬を渡すことができないなど悪条件が重なったとされる。そもそも上記の悪天候がなくても、[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]の関ヶ原開戦に間に合うはずもなかった。
 
家康は秀忠が間に合わないと察するや、徳川陣営において秀忠を待つか開戦すべきかを協議した。[[本多忠勝]]は「秀忠軍を待つべし」と主張し、[[井伊直政]]は「即時決戦」を主張した。家康は直政の意見を容れて即時決戦することにした。秀忠は、[[木曽地域|木曽]]の[[馬籠宿|馬籠]]に着いた17日に戦勝報告を受けた。
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これを知った家康は激怒し、秀忠に軍勢を休ませて徐行して進軍するように命じている。『当代記』では、11月1日に秀忠が[[岡崎宿|岡崎]]に着いたとき、「揃人数、急度上洛可有儀を、路次中急給故、供奉輩不相揃、軽々敷上給事、不可然」と叱責する使者を出したとまで言われている。ところが秀忠は家康の命令を無視して、11月2日には[[名古屋宿|名古屋]]、5日には[[彦根城|佐和山]]にまで到着するという強行軍を続けた。このため家康は「大軍数里の行程然るべからざる由、甚だ御腹立」であったと『[[駿府記]]』には記されている。
 
慶長20年([[1615年]])の大坂夏の陣の直前に行われた軍儀式では、家康、秀忠の双方が先陣を主張した。家康にとっては集大成であり、秀忠にとっては名誉挽回の好機であった。結局、秀忠が頑として譲らなかったため先陣は秀忠が務めたが、総攻撃が開始された5月7日、最激戦となった天王寺口で先陣を務めていたのは家康であり、名誉回復を果たすことはできなかった。
慶長20年([[1615年]])の大坂夏の陣では先陣は秀忠が務め、5月7日の天王寺・岡山の戦いでは中央の天王寺口を家康、右翼の岡山口を秀忠が担当した。ただし前日の宿営地である平野からは、天王寺口へは迂回する必要があり、岡山口の方が近く街道沿いにある。本合戦では秀忠の采配を称賛する記述が徳川家の史料で確認でき、秀忠の軍功として権威付けが行われた。
 
{{Quotation|
:'''『駿府記』'''
::未刻迄挑戦、関東勢少敗北之処、幕府自令執麾令進給、御圉人取留之、雖然払左右勇給、依之諸軍勇進、
::(午後二時頃まで戦われ、関東勢(幕府軍)が少し負けた所、幕府(秀忠)自身が指揮をするために前進したので、馬取がこれを押し留めたが、これを振り払って左右の者を鼓舞した、これにより諸軍は勇気付けられ前進した)
:'''5月14日付鳳来寺宛鈴木重辰書状'''
::将軍様御仕合無比類御事候、
::(将軍様(秀忠)の活躍は比類なきものである)
}}
 
== 人物 ==
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* [[亀姫 (松平忠直の娘)|亀姫]](宝珠院):[[松平忠直]]娘(母は三女[[天崇院|勝姫]])、[[高松宮好仁親王]]室
* [[円盛院|勝姫]](円盛院):[[本多忠刻]]娘(母は長女[[千姫]])、[[池田光政]]室
*鍋姫(法雲院):[[伊達忠宗]]娘(母は養女[[孝勝院|振姫]](孝勝院))、のちに[[徳川家光]]養女、[[立花忠茂]]室
* [[福正院|鶴姫]](福正院):[[榊原康政]]娘、[[池田利隆]]室
* [[梅渓院|久姫]](梅渓院):[[松平忠良]]娘(父は秀忠の従兄弟)、[[黒田忠之]]室
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[[Category:遠江国の人物]]
[[Category:胃癌で亡くなった人物]]
[[Category:15811579年生]]
[[Category:1632年没]]
[[Category:16世紀日本の人物]]