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河間府・清州・滄州で叛乱が起こると、王檝はチンギス・カンの命によって叛乱鎮圧を命じられ、[[ブトゥ・キュレゲン]]とともにモンゴル・乣・漢連合軍3,000を率いて河間地方を再度平定した。ブトゥは叛乱を起こした民を憎んで皆殺しにしようとしたが、王檝はまず民を扇動した叛乱の首魁を誅すべきこと、また民は許して兵として徴収するか農耕に従事させるべきことを主張して虐殺をやめさせた<ref>『元史』巻153列伝40王檝伝,「時河間・清・滄復叛、帝命檝討之、復命駙馬孛禿分蒙古軍及乣・漢軍三千属檝、遂復河間、得軍民万口。孛禿悪其反復欲尽誅之、檝解之曰『駆群羊使東西者、牧人也、羊何知哉。殲其渠魁足矣。釈此輩、遷之近県、強者使従軍、弱者使為農、此天之所以畀我也、何以殺為』。孛禿曰『汝能保此輩不復反耶』。檝曰『可』。即移文保任之、倶得全活」</ref>。
 
また、この頃に征服した華北の城邑が[[投下 (モンゴル帝国)|投下]]として諸王・功臣に分配された<ref>投下の分配は一般的に第2代皇帝オゴデイの時代に行われたものと考えられているが、松田孝一は『元史』王檝伝に「帝命闍里畢与皇太弟国王分撥諸侯王城邑」とあることから、実際にはチンギス・カンの時代からすでに投下の分配が行われていたと指摘している(松田1978,34-35頁)</ref>。特に、手工業者は人口調査が行われた後に別途諸王・功臣に共有されることになっており、[[耶律阿海]]が諸王功臣のリストを作り報告を行ったところ、チンギス・カンは王檝に分配の業務を任せよと命じた。なお、『元史』王檝伝はチンギス・カンが王檝を任命する際、「これを管理させるに言い人物がいるのだが名前が出てこない(朕有其人、偶忘姓名耳)」といってしばらく考えてから王宣撫(王檝)の名前を思い出して任命したというエピソードを伝えている<ref>高橋2011,60-61頁</ref>。また、陥落した中都では廟学が破壊されており、王檝はその跡地に孔子廟を再建した<ref>『元史』巻153列伝40王檝伝,「帝命闍里畢与皇太弟国王分撥諸侯王城邑、諭闍里畢曰『漢人中若王宣撫者、可任使之』。遂以前職、兼判三司副使。後又命省臣総括帰附工匠之数、将俾大臣分掌之。太師阿海具列諸大臣名以聞、帝曰『朕有其人、偶忘姓名耳』。良久曰『得之矣、旧人王宣撫可任是職』。遂命檝掌之。時都城廟学、既燬於兵、檝取旧枢密院地復創立之、春秋率諸生行釈菜礼、仍取旧岐陽石鼓列廡下」</ref>。この孔子廟は後に[[オゴデイ]]の命によって「国士学」としてモンゴル人が漢文を学ぶ拠点となった<ref>高橋2011,45-54頁</ref>。
 
[[1224年]]([[丙戌]])に[[西夏遠征]]が始まるとこれに従軍し、[[秦州]]に至った。現地では西夏兵が橋梁を全て撤去してモンゴル兵の侵攻を阻み、チンギス・カンが攻略法を諸将に尋ねても誰も答えられなかった。そこで王檝は夜を徹して兵に木石を運ばせ、簡易の橋を作ってモンゴル兵の侵攻を助けた。[[1228年]]([[戊子]])、中都の管理を命じられたが、この頃[[信安県 (河北省)|信安]]の盗賊が近隣を荒らすことが問題となっていた。そこで、王檝は水を引いて都城の守りを固めさせ、その費用は独自に券を作ることで補い民に負担が及ばないようにしたという<ref>『元史』巻153列伝40王檝伝,「丙戌、従征西夏。及秦州、夏人尽撤橋梁為備、軍阻不得前、帝問諸将、皆不知計所出。檝夜督士卒運木石、比曉、橋成、軍乃得進。戊子、奉監国公主命、領省中都。属盗起信安、結北山盗李密、転掠近県、檝曰『都城根本之地、何可無備』。引水環城、調度経費、檝自為券、假之賈人、而斂不及民、人心稍安。遣男守謙率軍討諸盗、平之」</ref>。