「真田丸の戦い」の版間の差分

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豊臣方が大坂城付近の砦を放棄して城内に撤収した後、幕府軍は大坂城を包囲した。真田丸正面には[[前田利常]]率いる兵12,000の他、[[南部利直]]、[[松倉重政]]、[[榊原康勝]]など数千、八丁目口・谷町口には、[[井伊直孝]]の兵4,000、[[松平忠直]]の兵10,000、他数千が布陣していた。真田丸には[[真田信繁]]指揮下の兵5,000、八丁目口・谷町口には[[木村重成]]、[[後藤基次]]、[[長宗我部盛親]]など、兵12,000以上が配置されていた<ref>後藤基次の近習、長沢九郎兵衛は、「真田丸は真田と長宗我部で半分ずつ受け持っていたが、世間には真田一人の出丸のように思われている」と語っている。</ref>。
 
[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]([[1615年]][[1月1日]])、[[徳川家康]]は本陣を住吉から茶臼山陣城([[大塚城]])に出向き巡検を行い、[[徳川秀忠]]も出向いた後、帰陣した(合戦後に家康は茶臼山へ、秀忠平野から岡山へ本陣を移した。家康は前田利常に、[[塹壕]]を掘り、[[土塁]]を築き、城を攻撃しないよう指示した。
真田丸の前方には篠山(ささやま)と呼ばれる丘があり、真田が兵を配置していた。前田勢が[[塹壕]]を掘り始めると、真田勢が[[火縄銃]]で篠山から狙撃し作業を妨害した。