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森山館(もりやまだて)は、青森県西津軽郡深浦町森山にあった日本の城である。

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森山館
青森県
森山館空撮
森山館空撮
別名 森山東館、森山城、茶右衛門館
天守構造 なし
主な城主 森山飛騨守季定、小野茶右衛門
廃城年 1613年
遺構 土塁、堀切
位置 北緯40度33分33.08秒 東経139度55分52.43秒 / 北緯40.5591889度 東経139.9312306度 / 40.5591889; 139.9312306 (森山館)北緯40度33分33.08秒 東経139度55分52.43秒 / 北緯40.5591889度 東経139.9312306度 / 40.5591889; 139.9312306座標: 北緯40度33分33.08秒 東経139度55分52.43秒 / 北緯40.5591889度 東経139.9312306度 / 40.5591889; 139.9312306
地図
森山館の位置(青森県内)
森山館
森山館
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歴史

出羽国河北郡深浦森山の館主の飛騨弾守季定が1546年(天文15年)春に安東氏に背いて討たれたという記録が、松前藩の歴史書『新羅之記録 』にある。

飛騨季定(ひだすえたか)が謀反を起こすと、これに檜山城より安東尋季[1]親子が押し寄せて来た。蠣崎季広は搦手の大将として参加する、急の飛脚が告げられてきた。季広は人数をそろえ、船に乗り連ね小泊に渡り、3月5日には森山に到着した。同15日、館の内より水桶を担いで出入りする者を見て、遥かに館の麓からこれを射つと、矢は当たり後ろから胸板を射通した。森山の館は程なくして落城した。生け捕られた者どもから「館内には水が無く、敵方に悟られない様にと水を汲む真似をしていたところ、射殺された 」と聞いた。敵方の落城はこれが原因であったという。季広の朝臣の矢一つによって、飛騨季定を自害に追い込んだのである。この弓は細い竹を組み合わせた細箔[2]という[3]

地元の言い伝えによると、森山集落は飛騨守の乱と小野茶右衛門討伐という2度の争乱のため、村は離散して一団は正道尻に移住し、他の一団は松神に逃れ、森山集落には平沢家の一団だけが残ったという。他へ移った森山流れの人々は、宗家を「大屋家」とよんでいるという[4]

民話

脚注

  1. ^ 安東家の文書では尋季はこのとき既に死没しているので誤記と思われる
  2. ^ 実態は分からないが『福山秘府』にも「その時季広公は、敵の将に一射しことごとく大敗させた。これよりこの弓の名は「底箔」という。『新羅』の記中に「細箔」とあるのはこれである」とある。
  3. ^ 『現代語訳 新羅之記録』、松前景廣、無明舎出版、2013年3月、p.40-41
  4. ^ 『岩崎村史 上巻』、岩崎村史編集委員会編、p.190-191

参考文献

  • 『岩崎村史 上巻』、岩崎村史編集委員会編、1987年