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'''敦賀隧道トンネル'''(つるがずいどうトンネル)は、[[日本]]の[[福井県]][[敦賀市]]と同県[[南条郡]][[南越前町]]を結ぶ[[北陸自動車道]]の[[トンネル]]である。「敦賀1977年に上りトンネル」と呼称されているトンネルは同区間内に2つある。1つは[[国道8号暫定2車線]]で開通し、1980年、もう1つは[[北陸自動車道]]上の[[敦賀イ下りトターチェンジ|敦賀IC]]と[[今庄インターチェンジ|今庄IC]]の間にそれぞれ設けられているネルが開通した
 
本項では、敦賀トンネルと並行する区間に先に建設された、[[国道8号]]の'''敦賀隧道'''(つるがずいどう)についても述べる。敦賀隧道は、有料道路「'''敦賀道路'''」(つるがどうろ)の一部として1962年に開通し、1972年に無料開放された。
== 国道8号 敦賀隧道 ==
 
[[ファイル:Tsuruga Tunnel (Japan National Route 8) 001.JPG|thumb|国道8号 敦賀隧道<br />(南越前町側、[[2011年]]([[平成]]23年)撮影)]]
{{Ja_Route_Sign|8|align=left}}
国道8号の敦賀隧道は、[[南越前町]]大谷と[[敦賀市]]元比田を結ぶトンネルである。
 
=== 概要 ===
福井県を大きく二分する[[嶺北]]と[[嶺南]]のいわれとなった[[木ノ芽峠]](木嶺)がある[[敦賀湾]]東縁山地(鉢伏山地)の北西部に位置する。
当所は甲楽城断層と呼ばれる巨大[[断層]]を有する[[断層崖]]であり、300m - 350mの標高差と平均斜度34度の急崖部の中腹に造られている。
 
当隧道の西側に並行している[[福井県道204号大谷杉津線]]が国道8号の[[旧道]]であり、当隧道開通前は嶺北と嶺南を結ぶ唯一の道路であったものの、平均幅員4m<ref>『福井県史 通史編6 近現代二』 福井県、1996年、p605。</ref>の未舗装路であり、トンネルや長大橋梁をほとんど設けず、この断層崖にへばりつくように蛇行していた。また、[[地すべり]]や[[がけ崩れ]]などの[[土砂災害]]が多発し、年間通行止め日数が[[1956年]]([[昭和]]31年)は24日、[[1957年]](昭和32年)は28日におよぶ<ref>『福井県史 通史編6 近現代二』 福井県、1996年、p606。</ref>などの難所であった。昭和30年代に当隧道を含む前後の区間の抜本的な拡幅改良舗装工事が進み、車道は2車線(片側1車線)の幅員が確保された。敦賀市大比田の大比田交差点(福井県道204号大谷杉津線交点)から当トンネル直前までの上り線(敦賀市→南越前町)には[[登坂車線]]も設けられている。なお、[[歩道]]は整備されていない。
 
換気装置として多くのジェットファンが設けられており、かつては合計15本以上(2本1組)あった。2021年現在は本数が減らされている。
 
=== 敦賀道路 ===
当トンネルは'''敦賀道路'''(敦賀有料道路)として[[日本道路公団]]が[[有料道路]]として計画、整備された。
福井県南条郡[[河野村 (福井県)|河野村]](現在の南越前町)大谷から同県敦賀市杉津までの5.2kmで、事業費は8億600万円であった。当初の計画では[[1992年]](昭和67年=平成4年)[[7月7日]]までの30年間、料金徴収を予定していたが、19年半近く早く償還完了して国に移管された。
 
=== 歴史 ===
* [[1959年]](昭和34年)
** [[3月23日]]:当隧道を含む、敦賀道路(敦賀有料道路)の事業許可。
** 7月:着工。
* [[1962年]](昭和37年)[[7月8日]]:当隧道が完成し、当時の河野村大谷から敦賀市杉津の区間が敦賀道路として開通。
* [[1966年]](昭和41年)[[11月10日]]:貨物自動車に対して、[[回数券]]による夜間特別割引を実施。
* [[1972年]](昭和47年)[[12月27日]]:償還が終了して無料開放。
 
== 通行量と料金収入 ==
左の数値は敦賀道路の通行量、右の数値は同道路の料金収入である<ref>『日本道路公団二十年史』 日本道路公団総務部、1976年、p730-p731。</ref>。
* 1962年度(昭和37年度):342,970台、41,120,000円
* [[1963年]]度(昭和38年度):769,072台、86,701,000円
* [[1964年]]度(昭和39年度):1,121,096台、120,491,000円
* [[1965年]]度(昭和40年度):1,461,552台、154,587,000円
* 1966年度(昭和41年度):1,861,059台、196,860,000円
* [[1967年]]度(昭和42年度):2,175,020台、225,189,000円
* [[1968年]]度(昭和43年度):2,735,239台、280,067,000円
* [[1969年]]度(昭和44年度):3,131,202台、327,629,000円
* [[1970年]]度(昭和45年度):3,676,302台、378,375,000円
* [[1971年]]度(昭和46年度):4,024,611台、415,330,000円
* 1972年度(昭和47年度):3,337,228台、344,185,000円
 
== 北陸自動車道 敦賀トンネル ==
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北陸自動車道の敦賀トンネルは、[[敦賀市]]杉津と[[南越前町]]新道とを結ぶ[[高速自動車国道]]のトンネルである。
 
=== 概要(敦賀トンネル) ===
前述の国道8号敦賀トンネルよりも東南の内陸に造られたトンネルである。敦賀側坑口の標高は256.9mであり、これは北陸自動車道の最高地点でもある。
 
長さは上り線([[米原ジャンクション|米原]]方面)が3,225m、下り線([[新潟中央ジャンクション|新潟中央]]方面)が2,925m。上り線のトンネルは、北陸自動車道全体では[[子不知トンネル]]、市振トンネル([[東日本高速道路|NEXCO東日本]]の管理区間)に次いで3番目(上り線下り線トンネルは6番目)に長く、北陸道の[[中日本高速道路|NEXCO中日本]]の管理区間では最も長いトンネルである。
 
トンネル内で下り線が上り線を跨ぐという、全国的にも稀に見る構造になっている。このため、下り線の敦賀側坑口から1つ目の[[非常口]]と上り線の敦賀側2つの非常口は走行車線側についている。その他の非常口は追越車線側にある。さらに、[[北陸新幹線]]の[[北陸トンネル|新北陸トンネル]]が途中で上下2本のトンネルを跨ぐ形で掘り進められる予定となっている。
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開通当初は[[暫定2車線]]であり、現在の上り線トンネルを[[対面通行]]で供用していた。供用開始から4車線化までの間、最高速度40km/h、そして追い越しのためのはみ出し通行禁止の規制がそれぞれなされていた<ref>『昭和52年12月6日 福井県報 第6464号』p8-P9 昭和52年12月6日 福井県公安委員会告示第71号。</ref>。下り線トンネルの供用開始(4車線化)以降、最高速度は80km/hであるが<ref>『昭和55年6月13日 福井県報 第6718号』p8 昭和55年6月13日 福井県公安委員会告示第25号。</ref>、トンネル内での車線変更禁止の規制はない。
 
=== 歴史(敦賀トンネル) ===
* [[1967年]](昭和42年)[[11月9日]]:[[米原ジャンクション|米原JCT]] - [[武生インターチェンジ|武生IC]]間の整備計画が決定される(暫定2車線)。
* [[1968年]](昭和43年)[[4月1日]]:同区間の施行命令が出される。
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<!--== 舞鶴若狭自動車道 敦賀トンネル ==
[[舞鶴若狭自動車道]]の[[美浜インターチェンジ (福井県)|美浜インターチェンジ]](仮称)から[[敦賀ジャンクション]](仮称)までの区間で整備されている、敦賀市長谷・山泉間で掘削中のトンネル(L=1,717m)にも、「敦賀トンネル」の名称がつけられている(福井県および敦賀舞鶴間道路整備促進期成同盟会2010年発行の「若狭湾地域を貫く大動脈 舞鶴若狭自動車道(近畿自動車道敦賀線)」には“岩籠山トンネル”の名称がつけられている)。供用時の名称は未定。-->
 
== 国道8号 敦賀隧道 ==
[[ファイル:Tsuruga Tunnel (Japan National Route 8) 001.JPG|thumb|国道8号 敦賀隧道<br />(南越前町側、[[2011年]]([[平成]]23年)撮影)]]
国道8号の敦賀隧道は、[[南越前町]]大谷と[[敦賀市]]元比田を結ぶトンネルである。
 
=== 概要(敦賀隧道) ===
福井県を大きく二分する[[嶺北]]と[[嶺南]]のいわれとなった[[木ノ芽峠]](木嶺)がある[[敦賀湾]]東縁山地(鉢伏山地)の北西部に位置する。
当所は甲楽城断層と呼ばれる巨大[[断層]]を有する[[断層崖]]であり、300m - 350mの標高差と平均斜度34度の急崖部の中腹に造られている。
 
当隧道の西側に並行している[[福井県道204号大谷杉津線]]が国道8号の[[旧道]]であり、当隧道開通前は嶺北と嶺南を結ぶ唯一の道路であったものの、平均幅員4m<ref>『福井県史 通史編6 近現代二』 福井県、1996年、p605。</ref>の未舗装路であり、トンネルや長大橋梁をほとんど設けず、この断層崖にへばりつくように蛇行していた。また、[[地すべり]]や[[がけ崩れ]]などの[[土砂災害]]が多発し、年間通行止め日数が[[1956年]]([[昭和]]31年)は24日、[[1957年]](昭和32年)は28日におよぶ<ref>『福井県史 通史編6 近現代二』 福井県、1996年、p606。</ref>などの難所であった。昭和30年代に当隧道を含む前後の区間の抜本的な拡幅改良舗装工事が進み、車道は2車線(片側1車線)の幅員が確保された。敦賀市大比田の大比田交差点(福井県道204号大谷杉津線交点)から当トンネル直前までの上り線(敦賀市→南越前町)には[[登坂車線]]も設けられている。なお、[[歩道]]は整備されていない。
 
換気装置として多くのジェットファンが設けられており、かつては合計15本以上(2本1組)あった。2021年現在は本数が減らされている。
 
=== 敦賀道路 ===
当トンネルは'''敦賀道路'''(敦賀有料道路)として[[日本道路公団]]が[[有料道路]]として計画、整備された。
福井県南条郡[[河野村 (福井県)|河野村]](現在の南越前町)大谷から同県敦賀市杉津までの5.2kmで、事業費は8億600万円であった。当初の計画では[[1992年]](昭和67年=平成4年)[[7月7日]]までの30年間、料金徴収を予定していたが、19年半近く早く償還完了して国に移管された。
 
=== 歴史(敦賀隧道) ===
* [[1959年]](昭和34年)
** [[3月23日]]:当隧道を含む、敦賀道路(敦賀有料道路)の事業許可。
** 7月:着工。
* [[1962年]](昭和37年)[[7月8日]]:当隧道が完成し、当時の河野村大谷から敦賀市杉津の区間が敦賀道路として開通。
* [[1966年]](昭和41年)[[11月10日]]:貨物自動車に対して、[[回数券]]による夜間特別割引を実施。
* [[1972年]](昭和47年)[[12月27日]]:償還が終了して無料開放。
 
=== 通行量と料金収入 ===
左の数値は敦賀道路の通行量、右の数値は同道路の料金収入である<ref>『日本道路公団二十年史』 日本道路公団総務部、1976年、p730-p731。</ref>。
* 1962年度(昭和37年度):342,970台、41,120,000円
* [[1963年]]度(昭和38年度):769,072台、86,701,000円
* [[1964年]]度(昭和39年度):1,121,096台、120,491,000円
* [[1965年]]度(昭和40年度):1,461,552台、154,587,000円
* 1966年度(昭和41年度):1,861,059台、196,860,000円
* [[1967年]]度(昭和42年度):2,175,020台、225,189,000円
* [[1968年]]度(昭和43年度):2,735,239台、280,067,000円
* [[1969年]]度(昭和44年度):3,131,202台、327,629,000円
* [[1970年]]度(昭和45年度):3,676,302台、378,375,000円
* [[1971年]]度(昭和46年度):4,024,611台、415,330,000円
* 1972年度(昭和47年度):3,337,228台、344,185,000円
 
== 参考文献 ==