「飯能戦争」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m →‎参考文献: 出典修正
m 修正
39行目:
こうした中、幕府陸軍調役並・[[本多敏三郎]]、同・[[伴貞懿|伴門五郎]]、調役並勤方・[[須永伝蔵|須永於菟之輔]]ら一橋家に縁のある若手幕臣は、朝敵となった慶喜の潔白を示すための行動を始めた<ref name="菊池9-10"/>。本多らは同年1月初頭から幕閣に対して徳川家を中心とした新たな政権構想についての建白を行っており<ref>[[#大藏 2020a|大藏 2020a]]、7頁</ref>、時流の悪化に伴い他の有志とともに集結したものだった<ref name="大藏a 3"/>
 
2月11日に起草された檄文は「橋府随従之有志」名義で発起人は須永、起草文を須永の縁者にあたる[[尾高惇忠 (実業家)|尾高惇忠]]{{#tag:ref|惇忠は[[水戸学]]の信奉者であり、文久3年(1863年)には同志と共に[[高崎城]]襲撃計画や[[外国人居留地#横浜居留地|横浜外国人居留地]]焼き討ち計画に関わった<ref>[[#埼玉県 1989|埼玉県 1989]]、811-812頁</ref>。渋沢栄一や成一郎が一橋家に仕えた縁で慶喜の知る所となり、慶応3年(1867年)10月、慶喜は側近に内命して惇忠の上京を促した<ref>[[#塚原 1979|塚原 1979]]、81-82頁</ref>。惇忠は慶喜が勤皇家の[[水戸徳川家]]出身であったことからこれを承諾したが、ほどなくして鳥羽・伏見の戦いが勃発したため上京は取りやめ故郷へ引き返した<ref>[[#塚原 1979|塚原 1979]]、83頁</ref>。その後、彰義隊の結成に関わるが、自身は幕臣ではないことから裏方に徹し、成一郎が天野派と対立すると行動を共にして脱退した<ref>[[#大藏 2020a|大藏 2020a]]、296頁</ref>。|group=注}}が手掛け、前半部分を本多、後半部分は伴が執筆を担当している<ref name="大藏a 39-40">[[#大藏 2020a|大藏 2020a]]、39-40頁</ref>。「尊皇の志の高い慶喜公が薩長の詐謀により窮地にあるのは、徳川家の御恩をこうむった者として静視することはできない」といった趣旨で幕府陸軍の撤兵方、騎兵方、砲兵方、歩兵方宛に「一廉の御用」について相談したい旨が記されている<ref name="大藏a 39-40"/>。
{{Quotation|我公、元来尊王の為に御誠忠を尽させられ、且昨冬宇内の形勢御洞察の上、二百年来の御祖業を一朝にして朝廷え御帰遊ばされ候。公明至誠の御英断は天人の知る所、然るに奸徒共の詐謀に因って、今日の危窮に至候段、切歯に堪ゆべからず候。君恥らるれば臣死するの時、殊に御同様橋府以来随従の身にて、如何ぞ傍観相成るべき哉。然れば各共力同心して、一廉の御用に相備、多年の鴻恩に報いんは此時也<ref name="大藏a 39-40"/>。|橋府随従之有志}}
 
189行目:
5月23日深夜、[[入間川 (埼玉県)|入間川]]沿いの笹井村(現・[[狭山市]]笹井)で新政府軍と振武軍側との戦端が開かれた<ref name="飯能炎上31">[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、31頁</ref>。当初、大村藩、佐土原藩、岡山藩は2時に扇町屋の陣から軍を進める約束を交わしていたが、佐土原藩は「万が一、敵に先んじられては合戦は難儀する」と懸念し、両藩に断りを入れた上で午前0時に陣を出発した(『東海道先鋒戦争之次第』)<ref>[[#宮崎県 1997|宮崎県 1997]]、108頁</ref>。入間川を渡り300メートルほど進んだところで両軍が遭遇し、振武軍側の兵と佐土原藩の隊長・谷山藤之丞との間で問答が交わされた後、振武軍側が発砲するも不発だったためそのまま谷山の頭部めがけて銃を振り下ろし、谷山も抜刀して応戦した<ref name="飯能炎上31"/><ref name="宮資料109">[[#宮崎県 1997|宮崎県 1997]]、109頁</ref>。その後、竹藪に潜む振武軍側が発砲すると、佐土原藩の銃隊、砲隊は川面に伏せながら応戦し、これを退散させた<ref name="飯能炎上31"/><ref name="宮資料109"/>。ただし、夜明け前のため伏兵による不測の事態を懸念して深追いすることはなかった<ref name="飯能炎上31"/><ref name="宮資料109"/>。
 
なお、この戦いにおける振武軍の被害の詳細は定かではないが、『飯能辺騒擾日記』は振武軍の隊長が[[肘|左臂]]を斬られたため能仁寺の本陣が引き取り、新政府軍が迫る状況下で治療を行った模様を記している<ref name="関係史料集70">[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、70頁</ref>。一方、佐土原藩側の被害は『東海道先鋒戦争之次第』によれば隊長の谷山が「傷後死」、戦兵1が「傷」と記している<ref name="宮資料109"/>{{#tag:ref|『島津忠寛 日向佐土原家記』では、谷山は怪我を押して奥州征討に加わり[[常陸国]][[平潟]]で没したと記している<ref name="関係史料集51"/>。『幕末維新全殉難者名鑑 4』では、「明治元年五月二十三日常陸平潟で傷、七月三日死」と記している<ref>[[#明田 1986|明田 1986]]、66頁</ref>。|group=注}}{{#tag:ref|『大総督府下参謀渡辺清届書 大総督府宛』(以下、『渡辺清届書』)では戦闘の直後に大村藩が応援に駆け付け、両藩がこの地で夜明けを待ったと記され、谷山の怪我の程度も「浅手負」と記している<ref name="関係史料集54-55">[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、54-55頁</ref>。さらに渡辺は晩年に『渡辺清談話』を残しているが、両藩が内命により夜明け前から行動を起こし、戦端を開いたかのように記すなど、『東海道先鋒戦争之次第』や『渡辺清届書』とは食い違いを見せている<ref name="関係史料集54-55"/>。|group=注}}。
 
==== 扇町屋への夜襲 ====
244行目:
能仁寺の陥落後、本隊は扇町屋から江戸へと戻ったが、福岡藩の分隊は直竹村に残り、振武軍の残党の掃討にあたった<ref name="関係史料集48"/>。周囲の村々で捜索にあたったところ、下畑村から三町ばかり先にある松山に賊徒が潜伏しているとの報告が届き、現場に向かったところ7、8人の姿を発見したため発砲<ref name="関係史料集48"/>。2名を討ち取り、残りは取り逃したものの手負い傷を負わせ、そのまま扇町屋に引き揚げた(『福岡藩隊長届書 太総督府宛』)<ref name="関係史料集48"/>。
 
鹿山口から白子村に進軍していた川越藩兵も残党の掃討にあたっていたが、白子村の対岸にある横手村の山腹の脇道を秩父方面に逃れようとする20から30人ほどの残党を発見した<ref name="関係史料集63"/>。川越藩兵は河川([[高麗川]])の急流を超えて対岸に渡り、残党の後を追跡し発砲すると、あわてて山林に潜伏した<ref name="関係史料集63"/>。そのため周囲を捜索したところ、1人を生け捕りにした<ref name="関係史料集63"/>。翌5月24日以降は軍監の尾上四郎左衛門の指示により数隊に分けて周囲の村々を捜索したが残党の姿はなく、5月27日に坂戸近隣の13か村を掃攘した後、5月28日に川越へ戻った(『松平康英 武蔵川越家記』)<ref>[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、54頁</ref>。横手村の住人・大川戸家の記録によると、当地に落ち延びてきた振武軍の残党は成一郎らだったといい、自宅で衣服や食料を与え、[[上野国|上州]]方面に向かう道案内を買って出るなど脱出行を手助けした<ref>[[#日高市史編集委員会、日高市教育委員会 2000|日高市史編集委員会、日高市教育委員会 2000]]、566-567頁</ref>。その後、成一郎と惇忠は[[草津宿|草津]]、伊香保(現・[[群馬県]][[渋川市]])方面に潜伏した後、成一郎は江戸に向かい[[榎本武揚]]の率いる旧幕府艦隊に合流<ref>[[#塚原 1979|塚原 1979]]、121頁</ref>、惇忠は機会を見計らった上で郷里の下手計に戻った(『藍香翁』)<ref name="塚原120"/>。
 
[[ファイル:渋沢平九郎自決の地(夏).jpg|250px|thumb|渋沢平九郎自決の地]]
253行目:
飯能の周辺に留まった者の中で、比留間良八は戦いの後に梅原村(現・日高市梅原)の実家、姉の嫁ぎ先、親戚宅を転々として難を逃れたと伝えられている<ref>[[#小高 2008|小高 2008]]、292頁</ref>。一方で、杉山銀之丞(平沢銀之丞、横手銀二郎)は戦いの後に鹿山を通行しようとして捕らえられた(『高麗神社 高麗大記』)、あるいは辛うじて生き長らえ鹿山に潜伏していたところを捕らえられ斬り殺されている(『飯能辺騒擾日記』)<ref>[[#小高 2008|小高 2008]]、338-339頁</ref>。
 
成一郎と同様に再起を図ろうとする者もあり、奥秩父の[[三峯神社]]には5月24日に徳川家浪人を名乗る高松小三郎、渋沢市五郎ら侍35人、兵43人が現れ軍用金を借用<ref name="関係史料集92-93">[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、92-93頁</ref>。翌5月25日には浪人を名乗る高木元三郎、落合伊織ほか5人、振武軍後隊の近藤熊太郎ほか5人が現れ金銭を要求している(『三峰神社日鑑』)<ref name="関係史料集92-93"/>。三峯神社は振武軍らが脱出後の集合場所として示し合わせていたとされるが、成一郎や惇忠は上州に向かったため当地には現れず、再起はならなかった<ref>[[#鶴ヶ島町史編さん室 1987|鶴ヶ島町史編さん室 1987]]、493頁</ref>。高岡槍太郎、河原彦太郎ら6は飯能の町から入間川を上流に向かって逃走を図り、[[名栗村]]を経て[[三峰山]]の麓の贄川(現・[[秩父市]]荒川贄川)で服装などを着替えて鴻巣へと向かった(『高岡槍太郎戊辰日誌』)<ref name="関係史料集41"/>。高岡は当地に潜伏した後、榎本の旧幕府艦隊に合流し、[[函館戦争]]に身を投じた<ref>[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、41頁</ref>。
 
== 結果と影響 ==