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[[幕末]]期の大村藩内では、諸国の他藩と同様に、幕府を重んじる勢力([[佐幕派]])と反幕府や朝廷を掲げようとする勢力([[尊王派]])が対立していた。幕府は地の利があり諸芸に明るかった純熈を[[長崎奉行]]に任じようとしていたが、当時の藩内外の情勢下でのこの幕府重職就任を、純熈は何度も固辞した。しかし、反幕府なのではないかとの嫌疑をかけられることを避けるため、文久3年([[1863年]])に純熈は長崎総奉行を拝命した。純熈が幕府の要職に任じられた、この事実により、藩内では佐幕派が台頭した。しかし尊王派はこれに対して[[松林飯山]]・[[針尾寿納|針尾九左衛門(寿納)]]・渡辺昇や[[楠本正隆]]らが集い改革派の同盟(勤王三十七士)を結成し、却って結束をが固くした。当時藩内では結社が禁止されていたため、彼らは密かに連絡を取り合い互いの屋敷に集い、時には山田の滝で会合を開いた。一方の佐幕派も同志が集い、血判を集めて結束した。[[元治]]元年([[1864年]])、純熈が病気を理由に長崎総奉行を辞任し、佐幕派を遠ざけたことにより尊王派が台頭し、家老に任じられた針尾寿納や[[渡辺清 (政治家)|渡辺清]]らによって藩政改革が行われた。慶応元年([[1865年]])に藩はイギリス式の教練法を導入し、洋式の兵制を導入した。この教練は純熈も度々列席し、参加していた。
 
[[慶応]]3年([[1867年]])正月、改革派同盟の盟主である針尾寿納・[[松林飯山]]<ref>享年28歳。江戸にて[[安積艮斎]]に学び、21歳で藩校五教館教授、26歳で祭主(校長)になった。</ref>らが襲撃された。松林は城での正月の宴席の帰り、自宅目前で襲われ、”一刀”の下に袈裟切りに殺害された。針尾も瀕死の重傷を負った。この知らせを受けて藩校[[五教館]]に2百名の藩士が集まり、純熈の命により犯人探しが行われた。実行犯として雄城直記が捕縛され、雄城が自白したとされる内容により、主犯として佐幕派の長井兵庫らが逮捕され、一門重臣<ref>松浦頼直の子孫の大村泰、大村純勝の子孫である大村邦三郎(大村熈友)・泰次郎兄弟。大村藩の一門扱いで、最も格式高かった両家については、第三代藩主[[大村純信]]の項目参照。大村泰の室は前藩主大村純顕の娘であった。</ref>らの加担も発覚した。犯行グループとされた一門重臣の者は切腹、逮捕者27名は処刑された<ref>連座まで含めると50余名とも。</ref><ref>この闘争は、ただの勤王や反幕と佐幕との争いではない。思想面の対立もあったであろうがそれよりむしろ、新旧の対立という面が大きい。例えば長井兵庫は藩の一刀流・新陰流師範の宮村佐久馬の高弟であり、藩校道場の治振軒の師範であったが、純熈が神道無念流を導入したために、師範の立場を失った。代わって重用されたのは、一刀流から神道無念流に転向した渡辺昇や柴江運八郎であった。さらに、純熈が才能ある人材を藩政中枢に登用したため、代々家柄で重んじられてきた由緒ある一門重臣もその立場を無くしていた。大村藩の佐幕派は即ち、反改革派であり保守派であり、新機軸により立場を失った者たちであった。これらの旧勢力が実力行使に出た機を捉え、純熈は大粛清を行い藩論を統一した。</ref>
 
この「大村騒動」または「小路騒動」と呼ばれた闘争を契機として、大村藩は藩主主導で藩論が尊王倒幕へと統一され、在郷家臣団を含む倒幕軍が結成された。藩はこの騒動を幕府に単なる「私闘」として届けた。一方で志を同じくする[[薩摩藩]]や[[長州藩]]に対しては、領内の佐幕派を一掃した、と伝えた。