「ジョン・F・ケネディ」の版間の差分

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Sabonya (会話 | 投稿記録)
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この間に多くの外国を訪問して見聞を広めた。1951年9月、7週間の視察旅行で[[インド]]を訪問した際に[[ジャワハルラール・ネルー|ネルー]]首相と会見した。ネルーから、東西対立で共産主義国が多くなったのは西側諸国がこれらの国に対して何もしないことが原因であり、武力だけでは貧しい[[開発途上国|発展途上国]]の共産主義化は防げない、彼らが本当に必要としている問題に取り組むべきだと指摘を受けた{{Sfn|ジェンキンス|pp=94,222}}<ref group="注">このネル―首相の指摘は、その後ケネディが大統領に就任後の「平和部隊」「進歩のための同盟」などの政策として実現した。</ref>{{Refnest|group="注"|この旅行には弟ロバートと妹パトリシアが一緒に同行して、旅行の最後は日本を予定していたが、沖縄で急な高熱で病院に運び込まれ、結局日本訪問は断念している{{Sfn|土田|pp=66-68}}。}}。
 
下院議員のときにまだ独身であったケネディは、さまざまな女性とのロマンスが噂された。映画女優[[ジーン・ティアニー]]、モデルの{{仮リンク|フロレンス・プリチェット|en|Florence Pritchett}}、テニスプレーヤーの[[ケイ・スタマーズ]]などと社交界で浮き名を流した。またジュリー・マルコム{{Refnest|group="注"|兄ジョセフ・ジュニアのガール・フレンドだったとジョン自身が親友のワシントンポストの元編集者ベン・ブラッドリーに語っていたが、ずっと後になって、ジョンが22歳の時にハドソン川を渡ってニュージャージー州フォートリーへ駆け落ちし、ジュリーとの結婚届を出してその後離婚届をしているとしている。ジュリー・マルコムは戦後の一時期もジョンと関係があったとする説があり、真偽は詳らかではない{{Sfn|ブライ|pp=167-171}}。またケネディの親しい友人のチャールズ・スポールディングも戦前に父ジョセフが怒り狂い、裁判所に行って結婚届を手に入れて処分してくるように命令された、と語っている{{Sfn|ジェンキンス|p=278}}。}}の名も上がっている。
 
=== 連邦上院議員 ===