「セニガッリアの聖母」の版間の差分

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小さなサイズは、絵画が私的な祈祷のために意図されたことを示している。[[セニガッリア]]([[マルケ州|マルケ]])のすぐ外部にあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエの[[フランシスコ会]][[修道院]]の教会で1822年に初めて注目され、現在の名称が付けられた<ref>Marilyn Lavin notes (''Piero della Francesca'', 2002, p.288) that the convent was in a state of disrepair at the time the panel was executed (c 1478-80), and the church we see was not built until 1491 after the birth of the heir of [[Giovanni della Rovere]]</ref>。セニガッリアの土地は、[[フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ]]によってシジスモンド・マラテスタから奪われたが、2人の人物は、ともに画家の常連の依頼主であった。絵画の委嘱は、1474年に[[ジョヴァンナ・ダ・モンテフェルトロ]]と婚約した{{仮リンク|ジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレ|it|Giovanni Della Rovere}}からなされたか、ジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレのためになされたと思われ、その時点でフェデリーコはジョヴァンニをセニガッリアの領主にした<ref>Lavin, 2002. ''Piero della Franceca'' pp288ff.</ref>。再発見の後、絵画はウルビーノのドゥカーレ宮に運ばれた。
 
1990年代の修復では、ピエロ・デッラ・フランチェスカの光の高度な処理<ref>Lavin 2002 p290.</ref> に加え、絵画に使用されている油彩と細部描写 (リネン・ガーゼの入った籠、[[サンゴ]]、[[聖母]]の頭を覆う布など) の両方で[[フランドル]]絵画の巨匠からの影響が示された。左側の窓からリアルに差し込む光は、[[処女懐胎]]の象徴である。籠の中のリネンは、代わって聖母の純粋さをほのめかしている。一方、幼児[[キリスト]]が身に着けているネックレスとサンゴのペンダントは[[聖体]]の犠牲を暗示している。すべての人物の凝視する視線、思慮深さのある不動性は、同じく聖体の犠牲を示唆している。
 
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20070928000549/http://www.artonline.it/opera.asp?IDOpera=496 artonline.itのページ]{{In lang|it}}
 
{{DEFAULTSORT:せにかつりあのせいほ}}
[[Category:ピエロ・デッラ・フランチェスカの作品]]
[[Category:15世紀1470年代の絵画]]
[[Category:聖母マリアを描いた絵画]]