「豊臣秀吉」の版間の差分

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2月28日、勝家は[[前田利長]]を先手として出陣させ、3月9日には自らも3万の大軍の指揮を執り出陣した。これに対して秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せて近江国に戻り、3月11日には柴田勢と対峙した。この対峙はしばらく続いたが、4月13日に秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・[[山路正国]]が勝家方に寝返るという事件が起こった。さらに織田信孝が岐阜で再び挙兵して稲葉一鉄を攻めると、信孝の人質を処刑した。はじめは勝家方が優勢であった。
 
4月20日早朝、勝家の重臣・[[佐久間盛政]]は、秀吉が織田信孝を討伐するために美濃国に赴いた隙を突いて、奇襲を実行した。この奇襲は成功し、大岩山砦の中川清秀は敗死し、岩崎山砦の高山重友は敗走した。しかしその後、盛政は勝家の命令に逆らってこの砦で対陣を続けたため、4月21日に中国大返しと同様に迅速に引き返してきた秀吉の反撃にあい、さらに[[前田利家]]らの裏切りもあって柴田軍は大敗を喫し(賤ケ岳の戦い)、柴田勝家は越前に撤退した([[美濃大返し]])。
 
4月24日、勝家は[[正室]]・[[お市の方]]と共に自害した。秀吉はさらに[[加賀国]]、[[能登国]]、[[越中国]]も平定し、前田利家には元々の領地である能登国に加えて加賀国のうちの2郡を与え、[[佐々成政]]には越中国の支配をこれまで通り安堵した。5月2日(異説あり)には、織田信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏した。