「浅草〆香」の版間の差分

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==経歴==
{{出典明記|section=1|date=2021年8月21日 (土) 00:28 (UTC)}}
[[新潟県]]出身。家業が傾いたため、福島県会津で芸者となる。新潟に戻り「〆香」と名乗った。映画監督の斎藤寅次郎や小津安二郎らに見出され、[[1933年]](昭和8年)、[[ポリドール]]から「柳の新潟」「雨の大川端」でデビュー。「東海の顔役」、「流れ三味線」、「大陸夫婦囃子」、「梅雨小袖昔八丈」などを吹き込む。特に[[1936年]](昭和11年)に発売した「会津磐梯山」は全国的な大ヒットとなった。同時に、「鈴銅の家」を離れて、浅草花街に芸妓置屋「春竹」を設け、女将になった。「春竹」という名前は〆香の本名「竹中ハルイ」から付けたものである。[[1942年]](昭和17年)、ポリドールとの専属契約を解消。[[1950年]](昭和25年)には、[[東海林太郎]]、渡辺はま子に続く、戦後の海外公演の第3陣として[[松平晃]]らとブラジル公演を行う。帰国後は、タイヘイレコードの専属歌手となった。一時引退するが、晩年は哥澤の名取「芝〆香」として浅草で暮らす。[[1997年]](平成9年)死去。享年85。