「フランツ・ゼルテ」の版間の差分

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[[1932年]]の大統領選挙では鉄兜団と国家人民党はディスターベルクを統一候補に立てたが、惨敗した。[[1933年]]1月に首相となったアドルフ・ヒトラーはまずディスターベルクに入閣を求めたが、拒否したため、ゼルテが代わりに入閣を求められて労働相となった。同年3月の[[1933年3月ドイツ国会選挙|選挙]]では、国家人民党との政党連合「黒・白・赤」から出馬し、[[国会議員]]に初当選した。同年6月21日に鉄兜団はナチス党の[[突撃隊]](SA)に吸収されて消滅し、ゼルテも[[突撃隊大将]]となった。[[1934年]]の[[長いナイフの夜]]の際にはディスターベルクが逮捕されたが、ゼルテの方は[[第二次世界大戦]]でドイツが敗戦するまで労働相の地位を保持した。とはいってもゼルテも実権はほとんどない形式的な閣僚にすぎず、労働政策の実権は軍需相[[アルベルト・シュペーア]]と労働力配置総監[[フリッツ・ザウケル]]が掌握していた。[[1935年]]にはヒトラーに辞職の許可を願い出ているが、却下されている。逆に[[プロイセン州]]政府の労働相の兼務を命じられた。
 
1945年4月、ヒトラーは自殺直前に政治的遺言をしたため、その中で自らの後継者として[[カール・デーニッツ]]を大統領、[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]を首相とする内閣を指名した。ただその中ではゼルテの名は外され、労働大臣には軍需省計画局長の[[:de:Theo Hupfauer|テオドール・フップアウアー]]が指名されている。ただしヒトラーの遺言はデーニッツにより無視され、彼が樹立した[[フレンスブルク政府]]においてゼルテは労働大臣に留任した
 
第二次世界大戦後に[[アメリカ軍]]により逮捕され[[ニュルンベルク継続裁判]]の一つ[[オズヴァルド・ポール裁判]]への起訴がほぼ決まっていたが、裁判開始直前に[[フュルト]]のアメリカ軍事病院で[[尿毒症]]により死去した。
 
== 人物 ==