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4月4日、新政府は慶喜の罪一等を減じて[[水戸市|水戸]]での謹慎を命じ<ref name="菊地27">[[#菊地 2010|菊地 2010]]、27頁</ref>、4月11日に慶喜は寛永寺を出て水戸へと向かった<ref name="菊地27"/>。惇忠が渡欧中の栄一にあてた書簡によれば、成一朗、惇忠、平九郎、須永らは慶喜に従い水戸に向かう予定だった、とある<ref>[[#小高 2008|小高 2008]]、172頁</ref>。一方、彰義隊には水戸へと向かう慶喜を警護するための任は下りず<ref name="菊地27"/>、一行が[[千住]]に到着した時点で江戸に引き返すように命ぜられた<ref name="菊地27"/>。
 
慶喜の警護を終えた後、彰義隊では渋沢派と天野派の対立が表面化した<ref name="飯能炎上6">[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、6頁</ref>。慶喜や徳川家の名誉挽回を目的第一義とし幕臣に限定した集団を目指す成一郎と、新政府軍との対決姿勢を強め身分を問わず兵員を拡充させようとする天野とで立場に違いがあった<ref name="菊地22-23"/>。『藍香翁』によれば成一郎は、上野では一戦を交える上で地の利がなく、市中を戦渦に巻き込みかねない点を理由に郊外への撤退を提案した<ref name="菊地28">[[#菊地 2010|菊地 2010]]、28頁</ref>。この提案は天野派には聞き入れられず、その後も議論を続けたものの進展せずに終わった<ref name="菊地28"/>。隊内には彰義隊が江戸幕府から両御番の役目に任じられるとの風説が流れ、幕府に期待する者もあったといい、江戸市中からの撤退案に対し頑強に反対する理由となった<ref name="飯能炎上6"/>。
 
成一郎は郊外への撤退にあたり豪商たちから軍資金や兵糧を調達しようとしており<ref name="飯能炎上6"/>、その使途を巡り対立があったとの見方もある<ref name="飯能炎上6"/><ref>[[#田無市史編さん委員会 1995|田無市史編さん委員会 1995]]、630頁</ref>。須永の『彰義隊に関する経歴』によれば彰義隊が浅草の屯所から移転した際に成一朗と天野との間で対立があり、彰義隊本隊が上野寛永寺に入ったのに対し、成一朗らは[[谷中 (台東区)|谷中]]の[[天王寺 (台東区)|天王寺]]に入ったと記されている<ref>[[#菊地 2010|菊地 2010]]、26-27頁</ref>。また、『高岡槍太郎戊辰日誌』(以下、『高岡槍太郎日誌』または『高岡日誌』)によれば、隊内では乱暴狼藉を働く者や、新政府軍の兵を故意に挑発する者が現れるなど規律が乱れ始めていたといい、それを成一郎が叱責したため命を狙われる事態となった<ref name="飯能炎上6"/>。なお、天野の自著『斃休録』では、自身が組織再編後に頭取に抜擢されたことに関して触れる一方で、両派閥の対立について触れられていない<ref>[[#菊地 2010|菊地 2010]]、29頁</ref>。
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新政府は輪王寺宮と彰義隊を分離させその士気を削ごうと、[[伏見宮邦家親王]]を介して輪王寺宮を京都に帰還させようと試みたが、輪王寺宮は閏4月12日にこれを拒否<ref name="菊地45">[[#菊地 2010|菊地 2010]]、45頁</ref>。閏4月26日には、薩摩藩・[[長州藩]]・[[土佐藩]]・[[広島藩]]を凶賊として非難する激を発するに至った<ref name="菊地45"/>。
 
新政府は閏4月29日、田安家の徳川亀之助(後の[[徳川家達]])に徳川宗家を相続させるものとし、5月1日には亀之助の父・[[徳川慶頼|慶頼]]らが担っていた江戸鎮撫取締の任を解き、東征軍が引き継ぐことを通告した<ref name="菊地45"/>。これにより役目を追われた彰義隊士の一部は5月7日に、薩摩藩士を[[根岸 (台東区)|根岸]]付近で、[[佐賀藩|肥前佐賀藩士]]を[[下谷広小路|上野北大門町]]で取り囲み殺傷する事件を引き起こすなど、行動を先鋭化させた<ref>[[#菊地、伊東 2018|菊地、伊東 2018]]、87-88頁</ref>。
 
こうした中、「尊王恭順有志会」以来の彰義隊役員、幕臣、新政府側が戦争回避のため彰義隊主戦派を個別に説得しようとする動きがみられた<ref name="小高67-68">[[#小高 2008|小高 2008]]、67-68頁</ref>。幕臣の勝は両者の武力衝突は徳川家の存続を危うくするものと懸念し、山岡を義観の下に派遣<ref name="小高67-68"/>。本多や伴は慶喜の意向に反した事態の鎮静化に努めた<ref>[[#大藏 2020b|大藏 2020b]]、44-45頁</ref>。また、新政府側は筑前福岡藩士・[[太田廣正]]、東征軍参謀・[[西四辻大夫]]を派遣し輪王寺宮らの召喚を試みるなど説得を試みるも、義観や竹林坊らが拒絶し取り合わなかった<ref name="小高65"/><ref name="小高67-68"/>。
 
5月13日、東征大総督府は彰義隊討伐を布告し<ref>[[#菊地 2010|菊地 2010]]、48頁</ref>、[[大村益次郎]]の率いる20002,000人の兵が彰義隊の屯集する上野を包囲するに至った<ref>[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、10頁</ref>。
 
== 経緯 ==
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『高岡槍太郎日誌』によれば閏4月19日<ref name="関係史料集40"/>、一行は[[青梅街道]]の[[田無市|田無]](現・東京都[[西東京市]])に入り、同地にある西光寺、密蔵院、観音寺{{#tag:ref|[[明治8年]](1875年)に3か寺を合併して[[総持寺 (西東京市)|総持寺]]と称した<ref>[[#田無市史編さん委員会 1995|田無市史編さん委員会 1995]]、803頁</ref>。|group=注}}などに宿営し、西光寺を本陣とした<ref name="飯能炎上14">[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、14頁</ref>。当地で隊名を「振武軍」と定め、役員が選出された<ref name="飯能炎上8"/>。一方、当地を治める[[江川太郎左衛門]]の元締手代・根本慎蔵が[[東征大総督|東征軍総督府]]に充てた『武州田無村脱走兵屯仕候御届書』では、成一郎らの田無屯集を5月1日とし、5月8日ころまでに250人が集結したと報告している<ref name="飯能炎上8"/><ref name="田無633-634">[[#田無市史編さん委員会 1995|田無市史編さん委員会 1995]]、633-634頁</ref>。
 
『高岡槍太郎戊辰日誌』、『小川村 御用向控帳』(以下、『御用向控帳』)、『蔵敷村 里正日誌』(以下、『里正日誌』)によれば、主な役職は以下の通りとなっており、成一朗は「大寄隼人」、惇忠は「榛沢新六郎」の変名を用いている<ref name="田無631"/>。なお、役員の中に[[須永伝蔵|須永於菟之輔]]の名がないが、『新彰義隊戦史』では「振武軍の募兵に水戸と江戸を往復しているうちに開戦となり、参戦していない」としている<ref name="大藏 2020b 38-39"/>。
 
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
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==== 諸隊の合流と飯能転陣 ====
5月15日、斥候から[[上野戦争]]が勃発したとの知らせが届くと、振武軍は5月16日0時に箱根ヶ崎を出立した<ref name="菊地74">[[#菊地 2010|菊地 2010]]、74頁</ref>。青梅街道を東進して上野を目指したものの、同日朝に一行が[[高円寺]]付近に到着した際に斥候から彰義隊が壊滅したとの報が届いた<ref name="菊地74"/>。一行は上野への進軍を諦めて田無に引き返すと、上野戦争で敗れた彰義隊、臥龍隊の兵士が続々と集まりだした(『廻り田新田御用届』)<ref name="飯能炎上20">[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、20頁</ref><ref>[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、17頁</ref>{{#tag:ref|『里正日誌』では振武軍を含め15001,500人ほどになったと記している<ref name="飯能炎上15">[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、15頁</ref><ref>[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、20頁</ref>。ただし、『飯能辺騒擾日記』{{#tag:ref|作者不詳<ref name="宮間2016 303">[[#宮間 2016|宮間 2016]]、303頁</ref>。「慶応四年辰五月」の作で、飯能戦争を新政府側の視点で記したもの<ref name="宮間2016 303"/>。筆者については[[岩倉具視]]の指示で関東地方で諜報活動を行っていた[[落合直亮]]ともいわれるが定かではない<ref name="宮間2016 303"/>。|group=注}}では最終的に飯能に屯集した兵の数を600人<ref>[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、68頁</ref>、飯能村など4か村の役人が戦の後に領主に充て提出した『乍以書付御奏申上候』(双木家文書)では450人ほどと記している<ref name="関係史料集78">[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、78頁</ref><ref>[[#飯能市史編集委員会 1988|飯能市史編集委員会 1988]]、371頁</ref>。そのため『上野彰義隊と箱館戦争史』では『里正日誌』の記述は実数より10001,000人ほど多いものとしている<ref>[[#菊地 2010|菊地 2010]]、74頁</ref>。|group=注}}。
 
一行は田無で一泊した後、5月17日に二手に分かれて出立<ref name="飯能炎上15"/>。一隊は[[秩父往還]]を通り所沢を経由して、もう一隊は青梅街道や[[日光脇往還]]を通り、箱根ヶ崎や扇町屋を経由して[[飯能市|飯能]]へ向かった<ref name="飯能炎上15"/>{{#tag:ref|『上野彰義隊と箱館戦争史』では箱根ヶ崎を経由した隊を振武軍、所沢を経由した隊を彰義隊としている<ref name="菊地75">[[#菊地 2010|菊地 2010]]、75頁</ref>。|group=注}}。振武軍と行動を共にした者には彰義隊の[[比留間良八 (1841年生)|比留間良八]]<ref name="大藏b 52-53">[[#大藏 2020b|大藏 2020b]]、52-53頁</ref>{{#tag:ref|[[武蔵国]][[高麗郡]]出身で、諱は利衆<ref name="大藏b 52-53"/>。[[甲源一刀流]]の剣客で、一橋家家臣に取り立てられた後、剣術教授方や陸軍銃隊指図役などを務めた<ref name="大藏b 52-53"/>。[[下総国]][[香取郡]]出身の比留間良八掃部とは別人<ref name="大藏b 52-53"/>。掃部は[[講武所]]指南役・今堀登代太郎の教えを受けた[[新陰流]]の使い手であり、利衆と同様に彰義隊士となった<ref name="大藏b 52-53"/>。|group=注}}、芝崎確次郎<ref>[[#大藏 2020b|大藏 2020b]]、32-33頁</ref>、竹澤市五郎(渋沢市五郎)<ref>[[#大藏 2020b|大藏 2020b]]、40-41頁</ref>、水橋右京(水橋右京之亮)<ref name="飯能炎上42">[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、42頁</ref><ref>[[#大藏 2020b|大藏 2020b]]、58-59頁</ref>、瀧川渡<ref name="飯能炎上42"/>、純忠隊の[[友成安良]]<ref>[[#大藏 2020b|大藏 2020b]]、46-47頁</ref>らがいる。
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==== 聖天林、森の内の戦い ====
中山智観寺を攻め落としたことにより能仁寺に直接向かう道が開けたが、聖天林{{#tag:ref|[[飯能市立飯能第一小学校]]付近に祀られていた[[歓喜天|聖天宮]]の林<ref>[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、34頁</ref>。|group=注}}に潜んでいた振武軍の兵の襲撃を受けた<ref name="関係史料集70"/>。そのため、大小砲二百丁で応戦した結果、敵兵1を討ち取り敗走させた(『飯能辺騒擾日記』)<ref name="関係史料集70"/>。
 
福岡藩の記録によれば智観寺襲撃の後、飯能裏手に進むため各藩で協議を始めると森の内から発砲を受けたため、発砲し二時ばかり応戦した後、相手を敗走させた<ref name="関係史料集48"/>。森の内に押し込み捜索したところ敵兵1人を打ち倒し、さらに周囲の村々を捜索したところ敵兵の姿が見えないため引き上げたとある(『福岡藩隊長届書 太総督府宛』)<ref name="関係史料集48"/>。
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なお、渡辺が後年語ったところによると、岡山藩兵が未熟練で同じ所に固まってしまうことを見かねて、大村の兵を別の隊長に預け、自ら岡山藩の指揮を執った<ref name="関係史料集54-55"/>。ただし初年兵ばかりで戦いに不慣れで、渡辺もついに顔面に残るほどの傷を負ったとしている(『渡辺清談話』)<ref name="関係史料集54-55"/>。
 
『高岡槍太郎戊辰日誌』には扇町屋へ夜襲に向かった前軍が飯能周辺の戦いに加わった模様が記されている<ref name="関係史料集41"/>。同書によると飯能に向けて道を急いでいたところ新政府軍の伏兵から発砲されたため、その場で戦端が開かれた<ref name="関係史料集41"/>。ただし高岡らは夜襲が目的だったため弾薬の備えが十分ではなく、味方からの大砲の支援もない中の戦いとなり、相手の酒樽、食料、医薬品を各自で奪いつつ応戦した<ref name="関係史料集41"/>。高岡らは馬上から指示を出す新政府軍の指揮官を倒すなど奮闘したが、物量に勝る新政府軍の前に次第に劣勢となり、広渡寺の側で幹部の山中ほか1人が戦死、少し離れた場所で1人が戦死したと記している<ref name="関係史料集41"/>。
 
==== 能仁寺の戦い ====
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忍藩は5月23日に秩父郷大宮(現・秩父市)へ立ち入った彰義隊の瀧川渡ら12人を取り調べ、飯能で討ちもらした残党として斬首した(『忍藩届出 大総督府宛』)<ref name="関係史料集61"/>。5月25日、同藩は振武軍の残党が[[寄居町|寄居]]に屯集しているとして一小隊を派遣した(『松平忠敬 武蔵忍家記』)<ref name="関係史料集61"/>。[[前橋藩]]は5月26日ころから領内の[[松山陣屋|武州松山陣屋]]付近を飯能戦争の脱走人が徘徊しているとして、周辺地域の捜索に乗り出した<ref name="関係史料集65">[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、65頁</ref>。そのうち一人を畠山村(現・深谷市畠山)[[満福寺 (深谷市)|満福寺]]で捕え、取り調べの後に討ち取った(『前橋藩記』)<ref name="関係史料集65"/>。
 
飯能の周辺に留まった者の中で、比留間良八は戦いの後に梅原村(現・日高市梅原)の実家、姉の嫁ぎ先、親戚宅を転々として難を逃れたと伝えられている<ref>[[#小高 2008|小高 2008]]、292頁</ref>。一方で、杉山銀之丞(平沢銀之丞、横手銀二郎)は戦いの後に鹿山を通行しようとして捕らえられたとも(『高麗神社 高麗大記』)、あるいは辛うじて生き長らえ鹿山に潜伏していたところを捕らえられ斬り殺されたとも伝えられている(『飯能辺騒擾日記』)<ref>[[#小高 2008|小高 2008]]、338-339頁</ref>。
 
成一郎と同様に再起を図ろうとする者もあり、奥秩父の[[三峯神社]]には5月24日に徳川家浪人を名乗る高松小三郎、渋沢市五郎ら侍35人、兵43人が現れ軍用金を借用<ref name="関係史料集92-93">[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、92-93頁</ref>。翌5月25日には浪人を名乗る高木元三郎、落合伊織ほか5人、振武軍後隊の近藤熊太郎ほか5人が現れ金銭を要求している(『三峰神社日鑑』)<ref name="関係史料集92-93"/>。三峯神社は振武軍らが脱出後の集合場所として示し合わせていたとされるが、成一郎や惇忠は上州に向かったため当地には現れず、再起はならなかった<ref>[[#鶴ヶ島町史編さん室 1987|鶴ヶ島町史編さん室 1987]]、493頁</ref>。高岡槍太郎、河原彦太郎ら6人は飯能の町から入間川を上流に向かって逃走を図り、[[名栗村]]を経て[[三峰山]]の麓の贄川(現・[[秩父市]]荒川贄川)で服装などを着替えて鴻巣へと向かった(『高岡槍太郎戊辰日誌』)<ref name="関係史料集41"/>。高岡は当地に潜伏した後、榎本の旧幕府艦隊に合流し、[[函館戦争]]に身を投じた<ref>[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、41頁</ref>。
 
== 結果と影響 ==
[[大村藩]]の[[渡辺清 (政治家)|渡辺清左衛門]]は、振武軍の死者数は山林原野に横たわり不明、生け捕りは50から60人、浅深手負いは不明と報告している(『渡辺清届書』)<ref name="関係史料集54-55"/><ref name="飯能炎上40">[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、40頁</ref>。これに対し新政府軍の死者はなく、浅手負いは5人と報告している<ref name="関係史料集54-55"/>。この報告には[[広島藩]]、[[川越藩]]、[[忍藩]]は含まれておらず<ref name="関係史料集54-55"/>、先述のように[[佐土原藩]]隊長の谷山藤之丞は傷後死ではなく軽傷として扱われている<ref name="関係史料集54-55"/>。渡辺は後年、自身も飯能の戦いで顔に残る怪我を負ったと発言しており(『渡辺清談話』)<ref name="関係史料集54-55"/>、損害の実態は定かではない。このほか、『飯能辺騒擾日記』では秩父に逃れた60から70人の賊徒を生け捕り総督府に問合せた上、同所で戮殺、飯能賊徒の討死は3人、官軍の死傷者は不明と記し<ref>[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、72頁</ref>、『里正日誌』では23日未明からの戦いにより振武軍と新政府軍の双方に討死や手負いが出たとのみ記している<ref>[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、20頁</ref>
 
戦場となった地域では[[能仁寺 (飯能市)|能仁寺]]、[[智観寺]]、[[観音寺 (飯能市)|観音寺]]、[[広渡寺]]の4か寺で本堂などの主だった建物が焼失、飯能村、久下分村、真能寺村、中山村の4か村の200戸が焼失する被害を受けた<ref name="飯能炎上40"/><ref>[[#宮間 2016|宮間 2016]]、291頁</ref>。また、飯能の町、鹿山、下畑などで住民が新政府軍から賊徒と誤認され殺害、人足や道案内として振武軍に協力した者が殺害された事例もあった<ref name="関係史料集54-55"/><ref name="飯能炎上40"/>。