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八郎は、奥州合戦において泰衝の命により、出羽口を[[田河行文]]、[[秋田致文]]らと守っていたが、[[鎌倉幕府|鎌倉]]軍に敗れ、[[宇佐美実政]]に生虜りになった<ref name=akita/>。捕虜の身でありながら「運尽きて囚人と為るは、勇士の常」と堂々とした態度で[[梶原景時]]の無礼をたしなめ<ref name=akita/>、[[畠山重忠]]が礼を尽くすと尋問に応じた<ref name=akita/>。それを見ていた[[源頼朝]]も「勇敢の誉れ有るに依って」罪を許した。
 
二度目の記載では、大河兼任の乱に際し、[[文治]]5年([[1189年]])12月24日、[[工藤行光]]、[[宮道国平|宮六傔仗国平]]らと[[陸奥国]]に先発し、小鹿島の大社山[[浜田 (秋田市)|毛々左田]]の辺(現[[秋田県]][[秋田市]]大森山・新屋付近か?)で討ち死にした<ref name=akita/>とある。後に戦況報告を聞いた頼朝が、その報告中に「[[橘公業|小鹿嶋橘次公成]]討ち死に由利中八維平逃亡」とあったことに対し、二人の性格から「由利維平討ち死に橘次公成逃亡」の間違いだろうと推察し、そのとおりであったことからその場にいた一同皆驚いたという逸話がある。しかし、『吾妻鏡』の論調としては援軍の到着を待つべきであったとして必ずしも維平を賞賛していない。
 
子の維久は[[和田合戦]]に連座して所領を没収されたと言われる<ref name=akita2>鈴木登「由利氏」『秋田大百科事典』 秋田魁新報社、1981年、ISBN 4870200074</ref>が、子孫は由利地方に土着、[[滝沢氏]]と称し[[由利十二頭]]の一として後に[[最上氏]]、続いて[[六郷氏]]の配下となり幕末に至った。
 
== 維平に関する伝説 ==
[[岩手県]][[紫波町]]の小屋敷地内にある稲荷街道の道端には維平の主家の一族にあたる[[藤原秀衡]]の六男で泰衡の末弟である錦戸太郎頼衡([[藤原頼衡]])の墓と伝えられている自然石の角柱がある。その頂部は斜に切断されているが、これについて次のような伝承が伝わっている。頼衡は父秀衡の死後、[[源義経]]に通じたことから次兄の泰衡との間に不和が生じた。身の危険を感じた頼衡は密かに平泉を脱出して北方に逃走したが、現在の紫波町と[[雫石町]]の境にある[[東根山]]の山麓で追っ手に捕らえられて殺害されてしまったという。この時頼衡は16歳前後だったとされる。これを憐れんだ里人たちが現地に遺骸を葬って懇ろに供養し、その上に自然石を立てて墓印としたのが、今に伝えられる頼衡の墓であるという。ところが、これを聞いた平泉の泰衡は、烈火のように怒って直ちに墓石を取りはらうように命じた。里人たちは、止む無くそれを取り覗いて近くのやぶへ捨ててしまった。それから間もないある晩のこと、当時奥羽きっての強力者として有名であった[[由利八郎]]がこの地に通りかかったが、かの墓石を捨てたあたりまでくると、草むらの中か妖しげな光り物がポーと浮かんできた。八郎は「狐狸のしわざに相違ない」と思いながら、腰の大刀を抜いて激しくこれを斬りつけた。その途端「カチン」という音がしたと思うと、光り物はゆらゆらと揺れながら飛び出してきた。八郎はその後を追いかけたが錦戸太郎の墓までくると消えてなくなった。気がつくと八郎の体は汗で満たされていた。そして急に疲れが襲って来た。翌朝、この話を聞いて里人たちが墓のところに来てみると、取り除いたはずの墓石がもとの通りに立っていたのである。そして、よく見ると頂部が斜に切断されていた。里人たちは「八郎の怪力にたよって墓石をもどしてもらったのだろう」と噂したという。<ref> 「ふるさと物語」【75】〈[[昭和]]45年[[8月10日]]発行「広報しわ」(第181)〉 、○『錦戸太郎の墓』 昔話と伝説(6) </ref>