「尾崎紀世彦」の版間の差分

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== 来歴・人物 ==
=== 生い立ち ===
[[バレエダンサー]]の両親のもと、[[東京都]][[渋谷区]]に男3人兄弟の次男として生まれ、小学校入学時より[[神奈川県]][[茅ヶ崎市]]で育つ。父:尾崎繁(芸名:藤田繁<!-- 出典に記載された芸名、または藤田繁一 -->)と兄:尾崎彰彦(芸名:藤田彰彦)は[[クラシック・バレエ]]のダンサー・演出家<ref>[http://www.nntt.jac.go.jp/library/library/pdf/youbushi1.pdf 日本洋舞史年表 I 1900-1959] p.8 1919 - 藤田繁(藤田彰彦の父)- 発行 [[新国立劇場]] {{リンク切れ|date=2021年6月}}</ref><ref>[http://www.j-b-a.or.jp/ballet-people.html 日本バレエ界に忘れえぬ足跡を印した人々] 藤田繁は[[エリアナ・パヴロワ]]門下生。- 日本バレエ協会{{リンク切れ|date=2021年6月}}</ref><ref>[http://elena-pavlova.jp/summary/# エリェナ パァヴロヴァ顕彰会] - Photo Gallery 最初の弟子・藤田繁《ジプシーの恋》</ref><ref>[http://theballetcom.jp/news/news-oosaka/773/ 日本のバレエの母 エリェナ・パァヴロヴァ先生を称えて★特別企画] - 青少年のためのバレエコンクール「ザ・バレコン」{{リンク切れ|date=2021年6月}}</ref>、母:礼子は[[日劇ダンシングチーム]]の一期生。父方の祖父は[[イギリス人]]のHenry Buckingham Lucas<ref>Henry Buckingham Lucas (1838 - 1904) [[ザ・ストレーツ・タイムズ|The Straits Times]](シンガポールの英字新聞)1904年1月20日、第2頁「DEATH OF A PIONEER」の見出しの死亡記事によると、明治時代の日本の灯台建設に関わった人物で[[在大阪英国総領事館|在神戸英国領事館]]に在籍した。[[神戸市立外国人墓地]]に眠る。※祖父の墓参りの画像から墓碑を検証。</ref>、本人は日英クォーターである。
 
幼少の頃からラジオの[[AFN|FEN]]で[[ジャズ]]や[[カントリー・ミュージック|カントリー]]等に親しんでいた。[[茅ヶ崎市立第一中学校]]卒業後、YMCA国際ホテル学校へ進学する。趣味は小学生で始めた[[サーフィン]]、[[乗馬]]、祭りの[[神輿]]担ぎ、[[ハーレーダビッドソン|ハーレー]]の収集とツーリング、縦目[[メルセデス・ベンツ|メルセデス]](オールドベンツ)でドライブ、[[ヨット]]、[[沖縄県|沖縄]]で[[スクーバダイビング|スクーバ]]、[[射撃]]、銀細工、シルバーアクセサリーの収集、[[料理]]<ref>『[[サンケイスポーツ]]』 2012年4月24日</ref><ref name="toshi">[https://blog.goo.ne.jp/studio385jp/e/d6e22a7a132f15fd4cb06326c8277a9f 365回目の恋 - アメノチハレ] - [[都志見隆]]のブログ 2012年6月2日掲載</ref>。
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==== ジミー時田とマウンテンプレイボーイズ 1965年 - 1966年 ====
契約した芸能プロダクション東京ハワイアンズが[[ジミー時田]]と同じ所属先という縁で<ref name="haran">[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]『[[いつみても波瀾万丈]]』1994年11月13日放送の要約 {{出典無効|date=2014年10月7日}}</ref>セカンドボーカルとギターで参加する<ref>ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズのアルバム『[[フォーク・ロック・パーティー]] TOKYO JAMBOREE』 ([[キングレコード]])ジャケット写真に尾崎紀世彦。</ref><ref>『[[GOLDEN☆BEST 尾崎紀世彦]]』 - [[ライナーノーツ]]に記載</ref>。
アルバム『尾崎紀世彦/カントリー&ウェスタンを歌う』では、演奏を「ジミー時田とマウンテンプレイボーイズ」に在籍した石田新太郎とシティライツが担当した。ジミー時田は、1967年から音楽活動の場を[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に移している。
 
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=== ソロ活動 ===
[[日音]]の[[村上司]]プロデューサー(後の日音・社長、会長)の熱心な働き掛けがあり、[[1970年]]8月に「別れの夜明け」で[[フィリップス・レコード]]よりソロデビュー<ref name="hiroshima"/>。デビューにあたって、「ザ・ワンダース」のリーダー小栗俊雄が歌手を引退、日音に所属し尾崎のディレクターとなった。ダイナミックな歌唱は業界内で話題となるが、同年9月、タクシー乗車中に六重衝突という交通事故に巻き込まれ、4ヶ月に及ぶ入院生活でレコードの宣伝活動ができず売れなかった<ref name="haran">[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]『[[いつみても波瀾万丈]]』1994年11月13日放送の要約 {{出典無効|date=2014年10月7日}}</ref>。
 
[[1971年]]、「[[また逢う日まで (尾崎紀世彦の曲)|また逢う日まで]]」「[[さよならをもう一度 (尾崎紀世彦の曲)|さよならをもう一度]]」「[[雪が降る]]」「[[愛する人はひとり]]」が次々とヒット、出身地・茅ヶ崎ではワンマン・ショー、大阪にて初のソロ・コンサートを開催する。2枚目のシングル「また逢う日まで」が売り上げ100万枚を突破、[[第13回日本レコード大賞]]大賞と第2回[[日本歌謡大賞]]大賞をダブル受賞する。日本レコード大賞を受賞した際に両手で[[Vサイン]]を、さらにトロフィーを持ち上げて笑顔でVサインをした[[パフォーマンス]]は、今もテレビで流れる名シーンである。
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|<ref group="注" name="cutC">1973年のアルバムよりリカット</ref>
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|'''[[My Better Life]]'''<br />c/w:Only Yesterday
|1979.10.1||PK-172
|[[山川啓介]]<br />c/w:武田全弘||[[大野雄二]]<br />c/w:[[木森敏之]]||大野雄二<br />c/w:木森敏之
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|尾崎紀世彦ポピュラーアルバム<br />尾崎紀世彦ポピュラーヒッツ
||洋楽スタンダード、全16曲<br />[[慕情]] / [[フィーリング]] / マサチューセッツ / [[故郷へかえりたい|カントリー・ロード]] / 想い出のサンフランシスコ / アイブ・ゴッタァ・ビー・ミー / セインド・イン・ザ・クラウンズ / ユール・ネバー・ファインド・アナザー・ラブ・ライク・マイン / [[シング (セサミストリートの曲)|シング]] / [[イフ (ブレッドの曲)|イフ]] / ホリディ / [[ドック・オブ・ザ・ベイ]] / 見果てぬ夢 / 太陽を背にうけて / [[花のサンフランシスコ]] / [[歌の贈りもの|アイ・ライト・ザ・ソング]]
||1979||CT<ref group="注" name="micdka"/>||CR-553<br />CR-1297||東京音楽工業
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