「今市の戦い」の版間の差分

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慶応4年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]](1868年[[5月15日]])、宇都宮城の戦いで敗北した大鳥圭介率いる旧幕府[[歩兵]]は、初期の目標であった[[徳川家康]]の[[霊廟]]・[[日光東照宮|日光山]]での新政府軍との決戦を意図し[[4月25日 (旧暦)|25日]]に日光へ到着したが、日光には留まらず今市から会津西街道に進路を取り[[4月5日 (旧暦)|閏4月5日]]、会津藩領の[[田島町 (福島県)|田島]]に到着した。これは一説には板垣退助の依頼を受けた[[台林寺]]住職厳亮による、東照宮を戦場にしないための説得があったとされ、これを顕彰する板垣の銅像も日光東照宮近くに存在する。しかし[[老中]][[板倉勝静]]による同様の説得があったとする説、[[秋月登之助]]による助言があったという説、さらにその後の行動から、会津藩・[[仙台藩]]を含む反新政府目的の一斉軍事行動計画の一環とする意見もある。
 
田島にて[[土方歳三]]ら負傷兵を療養のため会津藩へ残し、補給及び山川率いる会津の援軍を得た旧幕府歩兵は、再び日光街道まで南下し関東地域における軍事行動に就くこととなった。これに対して新政府軍は、[[4月29日 (旧暦)|4月29日]]に大鳥軍を撃退した板垣退助指揮下の[[土佐藩]]兵が、総督府からの閏4月4日付の命令で日光の守備を[[彦根藩]]兵と交代して、単独で今市に集結して会津西街道からの旧幕府軍の侵入を阻止する態勢を取った。<ref>大山 (1968: 314)</ref> 日光・今市方面の新政府軍の兵力は今市の土佐藩兵10個小隊と砲隊の500余名、日光守備の彦根藩兵700名という状態であり、彦根藩は斥候を会津西街道の隘路口周辺に派遣して土佐藩兵に協力した。<ref>大山 (1968: 314)</ref>
 
山岳地帯を後背にしている旧幕府軍は持久を重ねれば重ねるほど補給に悪影響を及ぼす状況であった。特に大鳥麾下の部隊はいわゆる客兵であり、人的補給の手段を取れない状態にあった。一方の新政府軍は平野内で補給を行っていたため、旧幕府軍とは対照的に円滑な補給が可能であった。また、参謀[[伊地知正治]]が白河方面へと移動するのに際して、土佐藩兵と共に日光を守備していた[[鳥取]]藩兵は江戸に引き上げていた。そのため、土佐、彦根の両藩は後方部隊を日光・今市方面に派遣し、閏4月22日には土佐藩兵1個小隊が江戸から今市へ向かった他、翌23日には彦根藩1個中隊が江戸を出発して日光の守備の増強に充てられた。<ref>大山 (1968: 315-316)</ref>