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慶喜の警護を終えた後、彰義隊では渋沢派と天野派の対立が表面化した<ref name="飯能炎上6">[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、6頁</ref>。慶喜や徳川家の名誉挽回を第一義とし幕臣に限定した集団を目指す成一郎と、新政府軍との対決姿勢を強め身分を問わず兵員を拡充させようとする天野とで立場に違いがあった<ref name="菊地22-23"/>。『藍香翁』によれば成一郎は、上野では一戦を交える上で地の利がなく、市中を戦渦に巻き込みかねない点を理由に郊外への撤退を提案した<ref name="菊地28">[[#菊地 2010|菊地 2010]]、28頁</ref>。この提案は天野派には聞き入れられず、その後も議論を続けたものの進展せずに終わった<ref name="菊地28"/>。隊内には彰義隊が江戸幕府から両御番の役目に任じられるとの風説が流れ、幕府に期待する者もあったといい、江戸市中からの撤退案に対し頑強に反対する理由となった<ref name="飯能炎上6"/>。
 
成一郎は郊外への撤退にあたり豪商たちから軍資金や兵糧を調達しようとしており<ref name="飯能炎上6"/>、その使途を巡り対立があったとの見方もある<ref name="飯能炎上6"/><ref>[[#田無市史編さん委員会 1995|田無市史編さん委員会 1995]]、630頁</ref>。須永の『彰義隊に関する経歴』によれば彰義隊が浅草の屯所から移転した際に成一朗と天野との間で対立があり、彰義隊本隊が上野寛永寺に入ったのに対し、成一朗らは[[谷中 (台東区)|谷中]]の[[天王寺 (台東区)|天王寺]]に入ったと記されている<ref>[[#菊地 2010|菊地 2010]]、26-27頁</ref>。また、『高岡槍太郎戊辰日誌』(以下、『高岡槍太郎日誌』または『高岡日誌』)によれば、隊内では乱暴狼藉を働く者や、新政府軍の兵を故意に挑発する者が現れるなど規律が乱れ始めていたといい、それを成一郎が叱責したため命を狙われる事態となったと記している<ref name="飯能炎上6"/>。また、『彰義隊戦史』収録の「須永傳蔵 彰義隊に関する経歴」によれば、須永や惇忠らが北関東への遊説や水戸藩との連携のため彰義隊を離れている間に成一朗と天野が袂を分けていたといい、江戸のことが気がかりとなり竹澤市五郎と共に戻ると、成一朗は[[谷中 (台東区)|谷中]]の[[天王寺 (台東区)|天王寺]]に別居していたと記している<ref>[[#菊地 2010|菊地 2010]]、26-27頁</ref><ref>[[#山崎 1910|山崎 1910]]、435頁</ref>。なお、天野の自著『斃休録』では、自身が組織再編後に頭取に抜擢されたことに関して触れる一方で、両派閥の対立について触れられていない<ref>[[#菊地 2010|菊地 2010]]、29頁</ref>。
 
成一郎、惇忠、平九郎、須永<ref name="大藏 2020b 38-39">[[#大藏 2020b|大藏 2020b]]、38-39頁</ref>らは閏4月11日夜半に彰義隊を脱退した<ref name="菊地30-31">[[#菊地 2010|菊地 2010]]、30-31頁</ref>。脱退後、成一郎は[[大塚 (文京区)|大塚]]の自宅に留まっていたが、主戦派の天野派、天野派による挑発行為を成一郎の指示によるものと疑う新政府軍の双方から命を狙われる事態となった(『藍香翁』)<ref>[[#塚原 1979|塚原 1979]]、109-110頁</ref>。『新彰義隊戦史』では成一郎宅襲撃に関わった彰義隊士として[[寺澤儭之丞]](寺澤儭太郎)らの名が挙げられている<ref>[[#大藏 2020b|大藏 2020b]]、33頁</ref><ref>[[#大藏 2020b|大藏 2020b]]、43頁</ref>。
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彰義隊を脱退した成一郎らは堀之内村(現・[[東京都]][[杉並区]][[堀ノ内 (杉並区)|堀之内]])の茶屋「信楽」を拠点に同志を集めることになった<ref name="飯能炎上8">[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、8頁</ref>。成一郎と行動を共にした彰義隊士は『高岡槍太郎日誌』では河原彦太郎、山田劉八郎、野村良造、山中昇、瀧村尚吉、[[高岡倉太郎|高岡槍太郎]]ら20人<ref name="関係史料集40">[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、40頁</ref>、この後に[[徳川慶篤|水戸中納言]]の家臣・渡辺遠ら70人、高岡の勧誘した[[酒井氏#雅楽頭酒井家|酒井雅楽頭]]の家臣3人、[[神奈川宿|神奈川]]方面で組織された菜葉隊らが加わったとしている<ref name="関係史料集40"/>。『藍香翁』に収録された成一郎の談話では、大塚の成一郎宅に集まった同志を200人<ref>[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、42頁</ref>、「信楽」に集まった同志を80から90人としている<ref>[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、42頁</ref>。
 
『藍香翁』によれば、この時点で成一郎らは武器弾薬を所持していなかったため、惇忠と謀り20人余りの隊士を率いて[[三番町 (千代田区)|三番町]]にある幕府営所から[[ミニエー銃]]300丁を奪取した(『藍香翁』)<ref name="飯能炎上8"/>{{#tag:ref|これについて幕府歩兵隊の脱走後に江戸の営所にミニエー銃が残されていた点を疑問視し、[[ゲベール銃]]ではないかという指摘もある<ref>[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、45頁</ref>。|group=注}}。一方、『高岡槍太郎日誌』によれば「或日彰義隊一統ヘ[[スイス|スイツル]]製ノ銃并弾薬共渡サレシ故之ノ機械ヲ携ヘ、寧口上野ヲ脱出シ(中略)因テ弾薬ヲ詰メ置キ右場合ニ至レバ撃チ殺シテモ脱越スル目的ニアリシモ」とあり、支給されたスイス製の銃を携えて彰義隊を離脱したとしている<ref>[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、40頁</ref>
 
『高岡槍太郎日誌』によれば閏4月19日<ref name="関係史料集40"/>、一行は[[青梅街道]]の[[田無市|田無]](現・東京都[[西東京市]])に入り、同地にある西光寺、密蔵院、観音寺{{#tag:ref|[[明治8年]](1875年)に3か寺を合併して[[総持寺 (西東京市)|総持寺]]と称した<ref>[[#田無市史編さん委員会 1995|田無市史編さん委員会 1995]]、803頁</ref>。|group=注}}などに宿営し、西光寺を本陣とした<ref name="飯能炎上14">[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、14頁</ref>。当地で隊名を「振武軍」と定め、役員が選出された<ref name="飯能炎上8"/>。一方、当地を治める[[江川太郎左衛門]]の元締手代・根本慎蔵が[[東征大総督|東征軍総督府]]に充てた『武州田無村脱走兵屯仕候御届書』では、成一郎らの田無屯集を5月1日とし、5月8日ころまでに250人が集結したと報告している<ref name="飯能炎上8"/><ref name="田無633-634">[[#田無市史編さん委員会 1995|田無市史編さん委員会 1995]]、633-634頁</ref>。
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==== 諸隊の合流と飯能転陣 ====
5月15日、斥候から[[上野戦争]]が勃発したとの知らせが届くと、振武軍は5月16日0時に箱根ヶ崎を出立した<ref name="菊地74">[[#菊地 2010|菊地 2010]]、74頁</ref>。青梅街道を東進して上野を目指したものの、同日朝に一行が[[高円寺]]付近に到着した際に斥候から彰義隊が壊滅したとの報が届いた<ref name="菊地74"/>。一行は上野への進軍を諦めて田無に引き返すと、上野戦争で敗れた彰義隊、臥龍隊{{#tag:ref|仁義隊は間宮金八郎を隊長とした部隊で、[[八王子千人同心]]の向山春吉をはじめとした[[多摩郡]]出身者のほか、各藩の脱藩浪士らで構成されていた<ref>[[#松尾 2006|松尾 2006]]、78頁</ref>。間宮は仁義隊の主力300人余を率いて上野戦争に参戦し、臥龍隊と称していた<ref name="松尾91">[[#松尾 2006|松尾 2006]]、91頁</ref>。|group=注}}の兵士が続々と集まりだした(『廻り田新田御用届』)<ref name="飯能炎上20">[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、20頁</ref><ref>[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、17頁</ref>{{#tag:ref|『里正日誌』では振武軍を含め1,500人ほどになったと記している<ref name="飯能炎上15">[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、15頁</ref><ref>[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、20頁</ref>。ただし、『飯能辺騒擾日記』{{#tag:ref|作者不詳<ref name="宮間2016 303">[[#宮間 2016|宮間 2016]]、303頁</ref>。飯能戦争を新政府側の視点で記したもの<ref name="宮間2016 303"/>。筆者については[[岩倉具視]]の指示で関東地方で諜報活動を行っていた[[落合直亮]]ともいわれるが定かではない<ref name="宮間2016 303"/>。|group=注}}では最終的に飯能に屯集した兵の数を600人<ref>[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、68頁</ref>、飯能村など4か村の役人が戦の後に領主に充て提出した『乍以書付御奏申上候』(双木家文書)では450人ほどと記している<ref name="関係史料集78">[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、78頁</ref><ref>[[#飯能市史編集委員会 1988|飯能市史編集委員会 1988]]、371頁</ref>。そのため『上野彰義隊と箱館戦争史』では『里正日誌』の記述は実数より1,000人ほど多いものとしている<ref>[[#菊地 2010|菊地 2010]]、74頁</ref>。|group=注}}。
 
一行は田無で一泊した後、5月17日に二手に分かれて出立<ref name="飯能炎上15"/>。一隊は[[秩父往還]]を通り所沢を経由して、もう一隊は青梅街道や[[日光脇往還]]を通り、箱根ヶ崎や扇町屋を経由して[[飯能市|飯能]]へ向かった<ref name="飯能炎上15"/>{{#tag:ref|『上野彰義隊と箱館戦争史』では箱根ヶ崎を経由した隊を振武軍、所沢を経由した隊を彰義隊としている<ref name="菊地75">[[#菊地 2010|菊地 2010]]、75頁</ref>。|group=注}}。振武軍と行動を共にした者には彰義隊の[[比留間良八 (1841年生)|比留間良八]]<ref name="大藏b 52-53">[[#大藏 2020b|大藏 2020b]]、52-53頁</ref>{{#tag:ref|[[武蔵国]][[高麗郡]]出身で、諱は利衆<ref name="大藏b 52-53"/>。[[甲源一刀流]]の剣客で、一橋家家臣に取り立てられた後、剣術教授方や陸軍銃隊指図役などを務めた<ref name="大藏b 52-53"/>。[[下総国]][[香取郡]]出身の比留間良八掃部とは別人<ref name="大藏b 52-53"/>。掃部は[[講武所]]指南役・今堀登代太郎の教えを受けた[[新陰流]]の使い手であり、利衆と同様に彰義隊士となった<ref name="大藏b 52-53"/>。|group=注}}、芝崎確次郎<ref>[[#大藏 2020b|大藏 2020b]]、32-33頁</ref>、竹澤市五郎(渋沢市五郎)<ref>[[#大藏 2020b|大藏 2020b]]、40-41頁</ref>、水橋右京(水橋右京之亮)<ref name="飯能炎上42">[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、42頁</ref><ref>[[#大藏 2020b|大藏 2020b]]、58-59頁</ref>、瀧川渡<ref name="飯能炎上42"/>、純忠隊の[[友成安良]]<ref>[[#大藏 2020b|大藏 2020b]]、46-47頁</ref>らがいる。
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大村藩や佐土原藩の記録には飯能の町中での戦いの記述は少ないが<ref name="宮資料109"/><ref name="関係史料集54-55"/>、後援として備えていた岡山藩の記録には火災の模様や、町中での戦闘の模様が記述されている(『先祖書 布施虎雄』)<ref name="関係史料集59">[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、59頁</ref>)。同書によると、岡山藩の南石隊が振武軍の屯集する観音寺を攻撃、ちりじりに追い払い武器甲冑を奪い、さらに振武軍の幹部・山中昇の宿所と見定めて放火した<ref name="関係史料集59"/>。また町筋でも銃撃戦となったため、盾として使っていた町屋に仕方なく放火すると、方々から火の手が上がったとある<ref name="関係史料集59"/>。大村藩の渡辺は中山智観寺の放火については福岡藩、久留米藩によるものとする一方、飯能の町への放火については「商家ハ則賊ノ敗兵所放火」と報告している(『渡辺清届書』)<ref name="関係史料集54-55"/>。
 
なお、渡辺が後年語ったところによると、岡山藩兵が未熟練で同じ一か所に固まってしまうことを見かねて、大村の兵を別の隊長に預け、自ら岡山藩の指揮を執った<ref name="関係史料集54-55"/>。ただし初年兵ばかりで戦いに不慣れで、渡辺もついに顔面に残る傷を負ったとしている(『渡辺清談話』)<ref name="関係史料集54-55"/>{{refnest|group="注"|name="渡辺"|「(前略)そこで大村の兵ハ次の隊長に任して、清が備前兵を指揮して遣ったが、何分始めて戦う兵であるから甚だ工合いが悪るい、其節清ハ遂に傷を負ふた、其傷ハ今でもこゝ(顔面を指して)残つて居ります」とある<ref name="関係史料集54-55"/>。}}
 
『高岡槍太郎日誌』には扇町屋へ夜襲に向かった前軍が飯能周辺の戦いに加わった模様が記されている<ref name="関係史料集41"/>。同書によると飯能に向けて道を急いでいたところ新政府軍の伏兵から発砲されたため、その場で戦端が開かれた<ref name="関係史料集41"/>。ただし高岡らは夜襲が目的だったため弾薬の備えが十分ではなく、味方からの大砲の支援もない中の戦いとなり、相手の酒樽、食料、医薬品を各自で奪いつつ応戦した<ref name="関係史料集41"/>。高岡らは馬上から指示を出す新政府軍の指揮官を倒すなど奮闘したが、物量に勝る新政府軍の前に次第に劣勢となり、広渡寺の側で幹部の山中ほか1人が戦死、少し離れた場所で1人が戦死したと記している<ref name="関係史料集41"/>。
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[[ファイル:渋沢平九郎自決の地(夏).jpg|250px|thumb|渋沢平九郎自決の地]]
越生方面に進軍した忍藩と広島藩は振武軍の[[甲府市|甲府]]方面への敗走の報告が届くと、忍藩は今市宿(現・[[越生町]]越生)の守りを固めた<ref name="広資料35-36"/>。広島藩は5月23日午後2時ごろ坂石(現・飯能市坂石)に向けて出立し、究意の者6人を斥候として先行させた<ref name="広資料35-36"/>。斥候が[[顔振峠]]の入り口に差し掛かったところ、六尺余の大男1人が旅装束姿で先を急いでいたため、斥候が呼び止めた<ref name="広資料35-36"/>。賊に間違いないと見て捕えようとしたところ直ぐに斬りあいとなり、究意の大力者でも生け捕りは困難となり討ち取った<ref name="広資料35-36"/>。その際、斥候2人が深手を負った<ref name="広資料35-36"/>。さらに越生の山中には数百人の賊が屯集していると見て、その日は一旦引き返し、5月24日に忍藩とともに当地に押し寄せたところ、賊ではなかったと分かり越生に戻った<ref name="広資料35-36"/>。広島藩は5月25日朝8時に越生を出立し坂戸で一泊した後、5月26日に川越城下に戻った(『慶応四年戊辰第一起神機隊奥州出軍日記』、以下『奥州出軍日記』)<ref name="広資料35-36"/>{{#tag:ref|広島藩隊長の連名で大総督府に宛てた報告では「黒山ト申所ニテ賊ノ敗卒ニ出合則取合候処、賊徒皆争先ヘ逃去リ一人打取申候」とあり、『奥州出軍日記』にある「六尺余の大男」については特に触れず、黒山で残党を掃討した際に1人を討ち取ったと記している(『広島藩隊長届出 大総督府宛』)<ref name="関係史料集60">[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、60頁</ref>。|group=注}}。『奥州出軍日記』にある「六尺余の大男」は[[渋沢平九郎]]だったといい、村人の談話によると、平九郎が斬りあいの末に午後4時ころ自決を試み、自ら腹を裂き喉を刺して倒れた<ref name="関係史料集47">[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、47頁</ref>。藩兵は銃弾を乱射してその首級を持ち去り、法恩寺の門前に晒した<ref name="関係史料集47"/>。遺体は村人の手で黒山[[全洞院]]に葬られ、首級も藩兵の去った後で法恩寺の林の中に葬られた(『渋沢平九郎伝』)<ref name="関係史料集47"/>。
 
忍藩は5月23日に秩父郷大宮(現・秩父市)へ立ち入った彰義隊の瀧川渡ら12人を取り調べ、飯能で討ちもらした残党として斬首した(『忍藩届出 大総督府宛』)<ref name="関係史料集61"/>。5月25日、同藩は振武軍の残党が[[寄居町|寄居]]に屯集しているとして一小隊を派遣した(『松平忠敬 武蔵忍家記』)<ref name="関係史料集61"/>。[[前橋藩]]は5月26日ころから領内の[[松山陣屋|武州松山陣屋]]付近を飯能戦争の脱走人が徘徊しているとして、周辺地域の捜索に乗り出した<ref name="関係史料集65">[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、65頁</ref>。そのうち一人を畠山村(現・深谷市畠山)[[満福寺 (深谷市)|満福寺]]で捕え、取り調べの後に討ち取った(『前橋藩記』)<ref name="関係史料集65"/>。畠山で討ち取られた残党は彰義隊の水橋右京だったといい、竹沢(現・[[小川町]])方面から逃れてきたところを捕らえられたと伝えられている<ref>[[#川本町 1989|川本町 1989]]、555-556頁</ref>。
 
飯能の周辺に留まった者の中で、比留間良八は戦いの後に梅原村(現・日高市梅原)の実家、姉の嫁ぎ先、親戚宅を転々として難を逃れたと伝えられている<ref>[[#小高 2008|小高 2008]]、292頁</ref>。一方で、杉山銀之丞(平沢銀之丞、横手銀二郎)は戦いの後に鹿山を通行しようとして捕らえられたとも(『高麗神社 高麗大記』)、辛うじて生き長らえ鹿山に潜伏していたところを捕らえられ斬り殺されたとも伝えられている(『飯能辺騒擾日記』)<ref>[[#小高 2008|小高 2008]]、338-339頁</ref>。
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== 結果と影響 ==
[[大村藩]]の[[渡辺清 (政治家)|渡辺清左衛門]]は、振武軍の死者数は山林原野に横たわり不明、生け捕りは50から60人、浅深手負いは不明と報告している(『渡辺清届書』)<ref name="関係史料集54-55"/><ref name="飯能炎上40">[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、40頁</ref>。これに対し新政府軍の死者はなく、浅手負は5人(岡山藩の瀬賀役次郎、宍戸久五郎、佐土原藩の谷山藤之丞、斎藤儀兵衛、大村藩の岡乕之助)と報告している<ref name="関係史料集54-55"/>。ただし、この報告には[[広島藩]]、[[川越藩]]、[[忍藩]]は含まれておらず<ref name="関係史料集54-55"/>、先述のように[[佐土原藩]]隊長記録では谷山藤之丞は傷後死<ref name="宮資料109"/>、岡山藩の記録ではなく軽傷と瀬賀は砲創により横浜の病院に収容され、3か月後に復帰て扱わたと記されている(『先祖并御奉公之品書上 瀬賀役次郎』)<ref name="関係史料集54-5560"/>。渡辺は後年、自身も飯能の町の戦いで顔に残る傷を負ったと発言しており(『渡辺清談話』)<ref name="関係史料集54-55"/><ref group="注" name="渡辺"/>、損害の実態は定かではない。このほか、『飯能辺騒擾日記』では秩父に逃れた60から70人の賊徒を生け捕り総督府に問合せた上、同所で戮殺、飯能賊徒の討死は3人、官軍の死傷者は不明と記し<ref>[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、72頁</ref>、『里正日誌』では23日未明からの戦いにより振武軍と新政府軍の双方に討死や手負いが出たとのみ記している<ref>[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、20頁</ref>。
 
戦場となった地域では[[能仁寺 (飯能市)|能仁寺]]、[[智観寺]]、[[観音寺 (飯能市)|観音寺]]、[[広渡寺]]の4か寺で本堂などの主だった建物が焼失、飯能村、久下分村、真能寺村、中山村の4か村の200戸が焼失する被害を受けた<ref name="飯能炎上40"/><ref>[[#宮間 2016|宮間 2016]]、291頁</ref>。また、飯能の町、鹿山、下畑などで住民が新政府軍から賊徒と誤認され殺害、人足や道案内として振武軍に協力した者が殺害された事例もあった<ref name="関係史料集54-55"/><ref name="飯能炎上40"/>。
 
戦から1か月半後の7月9日、甲府鎮撫府から[[延岡藩]]が飯能表の取り締まりのため派遣されたが、戦火の影響により飯能で宿陣することができず、上鹿山村に陣を置き職務を行うことになった<ref>[[#日高市史編集委員会、日高市教育委員会 2000|日高市史編集委員会、日高市教育委員会 2000]]、568頁</ref>。その後も周辺地域の治安状態は回復せず、住民がゲベール銃やライフルで武装し自衛せざるを得なくなった<ref>[[#中西 2016|中西 2016]]、341-342頁</ref>。
 
飯能周辺は幕府領や旗本領が多く<ref>[[#下山 1979|下山 1979]]、59頁</ref>、この戦いでは振武軍に対し住民が比較的寛容な姿勢を見せたが、やがて新政府に敵対したイメージから戦いのことは語られなくなった<ref>[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、48頁</ref>。研究者の宮間純一は戦いの直後から「[[佐幕]]」的行為は人々の記憶から抹消されていき、「[[勤王]]」という新政府の価値観に沿う行為、あるいは被害者的視点のみが強調されていったと指摘<ref name="宮間307-308">[[#宮間 2016|宮間 2016]]、307-308頁</ref>。1944年に刊行された『飯能郷土史』ではその傾向が顕著に表れ、戦後に刊行された『飯能市史』でも断片的に残されていると指摘している<ref name="宮間307-308"/>。
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* {{Cite book|和書|author=大藏八郎|chapter=付録1・彰義隊名鑑|title=新彰義隊戦史|publisher=勉誠出版|year=2020|isbn=978-4-585-22285-9|ref=大藏 2020b}}
* {{Cite book|和書|author=小高旭之|title=幕末維新埼玉人物列伝|publisher=[[さきたま出版会]]|year=2008|isbn=978-4-87891-396-9|ref=小高 2008}}
* {{Citation|和書|editor=[[川本町]]|title=川本町史 通史編|publisher=川本町|year=1989|ref=川本町 1989}}
* {{Cite book|和書|author=菊地明|title=上野彰義隊と箱館戦争史|publisher=[[新人物往来社]]|year=2010|isbn=978-4-404-03949-1|ref=菊地 2010}}
* {{Citation|和書|editor=菊地明、伊東成郎|title=戊辰戦争全史 上|publisher=[[戎光祥出版]]|year=2018|isbn=978-4-86403-282-7|ref=菊地、伊東 2018}}
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* {{Citation|和書|editor=日高市史編集委員会、日高市教育委員会|title=日高市史 通史編|publisher=[[日高市]]|year=2000|ref=日高市史編集委員会、日高市教育委員会 2000}}
* {{Citation|和書|editor=[[広島県]]|title=広島県史 近代現代資料編 1|publisher=広島県|year=1973|ref=広島県 1973}}
* {{Citation|和書|editor=[[松尾正人]]|chapter=多摩の戊辰戦争 - 仁義隊を中心に - |title=近代日本の形成と地域社会 多摩の政治と文化|publisher=[[岩田書院]]|year=2006|isbn=4-87294-429-1|ref=松尾 2006}}
* {{Citation|和書|editor=[[宮崎県]]|title=宮崎県史 史料編 近世 6|publisher=宮崎県|year=1997|ref=宮崎県 1997}}
* {{Citation|和書|editor=宮崎県|title=宮崎県史 通史編 近世 下|publisher=宮崎県|year=2000|ref=宮崎県 2000}}
* {{Cite book|和書|author=山崎有信|title=彰義隊戦史|publisher=[[隆文館]]|url={{NDLDC|773365/239}}|year=1910|ref=山崎 1910}} - [[国立国会図書館]]デジタルコレクション
 
== 関連項目 ==