「飯能戦争」の版間の差分

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『藍香翁』によれば、この時点で成一郎らは武器弾薬を所持していなかったため、惇忠と謀り20人余りの隊士を率いて[[三番町 (千代田区)|三番町]]にある幕府営所から[[ミニエー銃]]300丁を奪取した<ref name="飯能炎上8"/>{{#tag:ref|これについて幕府歩兵隊の脱走後に江戸の営所にミニエー銃が残されていた点を疑問視し、[[ゲベール銃]]ではないかという指摘もある<ref>[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、45頁</ref>。|group=注}}。一方、『高岡槍太郎日誌』によれば「或日彰義隊一統ヘ[[スイス|スイツル]]製ノ銃并弾薬共渡サレシ故之ノ機械ヲ携ヘ、寧口上野ヲ脱出シ(中略)因テ弾薬ヲ詰メ置キ右場合ニ至レバ撃チ殺シテモ脱越スル目的ニアリシモ」とあり、支給されたスイス製の銃を携えて彰義隊を離脱したとしている<ref>[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、40頁</ref>。
 
『高岡槍太郎日誌』によれば閏4月19日<ref name="関係史料集40"/>、一行は[[青梅街道]]の[[田無市|田無]](現・東京都[[西東京市]])に入り、同地にある西光寺、密蔵院、観音寺{{#tag:ref|[[明治8年]]8年(1875年)に3か寺を合併して[[総持寺 (西東京市)|総持寺]]と称した<ref>[[#田無市史編さん委員会 1995|田無市史編さん委員会 1995]]、803頁</ref>。|group=注}}などに宿営し、西光寺を本陣とした<ref name="飯能炎上14">[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、14頁</ref>。当地で隊名を「振武軍」と定め、役員が選出された<ref name="飯能炎上8"/>。一方、当地を治める[[江川太郎左衛門]]の元締手代・根本慎蔵が[[東征大総督|東征軍総督府]]に充てた『武州田無村脱走兵屯仕候御届書』では、成一郎らの田無屯集を5月1日とし、5月8日ころまでに250人が集結したと報告している<ref name="飯能炎上8"/><ref name="田無633-634">[[#田無市史編さん委員会 1995|田無市史編さん委員会 1995]]、633-634頁</ref>。
 
『高岡槍太郎日誌』、『小川村 御用向控帳』(以下、『御用向控帳』)、『蔵敷村 里正日誌』(以下、『里正日誌』)によれば、主な役職は以下の通りとなっており、成一朗は「大寄隼人」、惇忠は「榛沢新六郎」の変名を用いている<ref name="田無631"/>。なお、役員の中に[[須永伝蔵|須永於菟之輔]]の名がないが、『新彰義隊戦史』では「振武軍の募兵に水戸と江戸を往復しているうちに開戦となり、参戦していない」としている<ref name="大藏 2020b 38-39"/>。
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==== 諸隊の合流と飯能転陣 ====
5月15日、斥候から[[上野戦争]]が勃発したとの知らせが届くと、振武軍は5月16日0時に箱根ヶ崎を出立した<ref name="菊地74">[[#菊地 2010|菊地 2010]]、74頁</ref>。青梅街道を東進して上野を目指したものの、同日朝に一行が[[高円寺]]付近に到着した際に斥候から彰義隊が壊滅したとの報が届いた<ref name="菊地74"/>。一行は上野への進軍を諦めて田無に引き返すと、上野戦争で敗れた彰義隊、臥龍隊{{#tag:ref|仁義隊の主力部隊<ref>[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、9頁</ref>。仁義隊は間宮金八郎を隊長とした部隊で、[[八王子千人同心]]の向山春吉をはじめとした[[多摩郡]]出身者のほか、各藩の脱藩浪士らで構成されていた<ref>[[#松尾 2006|松尾 2006]]、78頁</ref>。間宮は仁義隊の主力300人余を率いて上野戦争に参戦し、臥龍隊と称した<ref name="松尾91">[[#松尾 2006|松尾 2006]]、91頁</ref>。|group=注}}の兵士が続々と集まりだした(『廻り田新田御用届』)<ref name="飯能炎上20">[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、20頁</ref><ref>[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、17頁</ref>{{#tag:ref|『里正日誌』では振武軍を含め1,500人ほどになったと記している<ref name="飯能炎上15">[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、15頁</ref><ref>[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、20頁</ref>。ただし、『飯能辺騒擾日記』{{#tag:ref|作者不詳<ref name="宮間2016 303">[[#宮間 2016|宮間 2016]]、303頁</ref>。飯能戦争を新政府側の視点で記したもの<ref name="宮間2016 303"/>。筆者については[[岩倉具視]]の指示で関東地方で諜報活動を行っていた[[落合直亮]]ともいわれるが定かではない<ref name="宮間2016 303"/>。|group=注}}では最終的に飯能に屯集した兵の数を600人<ref>[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、68頁</ref>、飯能村など4か村の役人が戦の後に領主に充て提出した『乍以書付御奏申上候』(双木家文書)では450人ほどと記している<ref name="関係史料集78">[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、78頁</ref><ref>[[#飯能市史編集委員会 1988|飯能市史編集委員会 1988]]、371頁</ref>。そのため『上野彰義隊と箱館戦争史』では『里正日誌』の記述は実数より1,000人ほど多いものとしている<ref>[[#菊地 2010|菊地 2010]]、74頁</ref>。|group=注}}。
 
一行は田無で一泊した後、5月17日に二手に分かれて出立<ref name="飯能炎上15"/>。一隊は[[秩父往還]]を通り所沢を経由して、もう一隊は青梅街道や[[日光脇往還]]を通り、箱根ヶ崎や扇町屋を経由して[[飯能市|飯能]]へ向かった<ref name="飯能炎上15"/>{{#tag:ref|『上野彰義隊と箱館戦争史』では箱根ヶ崎を経由した隊を振武軍、所沢を経由した隊を彰義隊としている<ref name="菊地75">[[#菊地 2010|菊地 2010]]、75頁</ref>。|group=注}}。振武軍と行動を共にした者には彰義隊の[[比留間良八 (1841年生)|比留間良八]]<ref name="大藏b 52-53">[[#大藏 2020b|大藏 2020b]]、52-53頁</ref>{{#tag:ref|[[武蔵国]][[高麗郡]]出身で、諱は利衆<ref name="大藏b 52-53"/>。[[甲源一刀流]]の剣客で、一橋家家臣に取り立てられた後、剣術教授方や陸軍銃隊指図役などを務めた<ref name="大藏b 52-53"/>。[[下総国]][[香取郡]]出身の比留間良八掃部とは別人<ref name="大藏b 52-53"/>。掃部は[[講武所]]指南役・今堀登代太郎の教えを受けた[[新陰流]]の使い手であり、利衆と同様に彰義隊士となった<ref name="大藏b 52-53"/>。|group=注}}、芝崎確次郎<ref>[[#大藏 2020b|大藏 2020b]]、32-33頁</ref>、竹澤市五郎(渋沢市五郎)<ref>[[#大藏 2020b|大藏 2020b]]、40-41頁</ref>、水橋右京(水橋右京之亮)<ref name="飯能炎上42">[[#飯能市郷土館 2011|飯能市郷土館 2011]]、42頁</ref><ref>[[#大藏 2020b|大藏 2020b]]、58-59頁</ref>、瀧川渡<ref name="飯能炎上42"/>、純忠隊の[[友成安良]]<ref>[[#大藏 2020b|大藏 2020b]]、46-47頁</ref>らがいる。
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岡山藩は5月20日夕方、水野三郎兵衛の隊が江戸を出立すると、彰義隊の退路と支援勢力の加勢を断つ目的で[[蕨宿#戸田の渡し場|戸田の渡し]]付近に駐屯していた<ref name="大藏 2020a 79-80">[[#大藏 2020a|大藏 2020a]]、79-80頁</ref>南石藤三郎の隊と合流<ref name="飯能炎上22"/>。[[南畑村 (埼玉県)|南畑村]](現・[[ふじみ野市]])で金品や食料を要求していた郎党4人を斬首、9人を小銃で射殺した後、5月21日に川越へ到着した<ref name="飯能炎上22"/>。ここで旧幕府軍残党が飯能に屯集しているとの情報を得ると、福岡藩から派遣された軍監・尾上四郎左衛門、川越藩とともに軍議を開き、岡山藩と川越藩の砲隊が黒須(現・入間市黒須)、福岡藩と川越藩が鹿山(現・[[日高市]]鹿山)方面へ向かうことになった<ref name="飯能炎上22"/>。
 
[[広島藩]]は東征軍には[[神機隊]]が加わり<ref>[[#広島県 1973|広島県 1973]]、33頁</ref>、岡山藩の南石隊と同様の目的<ref name="大藏 2020a 79-80"/>で、三番隊と五番隊が[[忍城]]下の[[行田市|行田]]に駐留した<ref name="広資料35-36">[[#広島県 1973|広島県 1973]]、35-36頁</ref>。その後、三番隊は忍の警衛にあたり、五番隊は忍藩兵100人とともに[[鴻巣宿]]に向かい、五番隊28人は鴻巣より先にある[[桶川宿]]本陣の番兵の任務にあたった<ref name="広資料35-36"/>。5月21日朝、同隊の富永栄之助が「残り兵四番隊は甲府表に出張」との大総督府からの御状を持参し、さらに川越藩主・[[松平康英]]の使者が行田を訪れたため、同日夕方、忍藩兵100人とともに川越へ鴻巣を出立<ref name="広資料35-36"/>。翌5月22日鴻巣を経て川越に入り、[[越生町|越生]]に300人余りの残党が屯集しているとの情報を得ると、その掃討のため[[坂戸市|坂戸]]を経て越生へと向かった<ref name="広資料35-36"/><ref group="注" name="共同"/>。
 
5月21日午後、主力部隊は扇町屋に到着すると、岡山藩を交えて軍議を開き、[[秩父往還|秩父甲州往還]]を西進して飯能の正面を突く先鋒隊を大村藩、佐土原藩<ref name="飯能炎上22"/>。その後援を岡山藩<ref name="飯能炎上22"/>。先鋒隊と分かれて双柳、中山方面から飯能の側面を突く役目を福岡藩、久留米藩とすることなどが決まった<ref name="飯能炎上22"/>。
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* {{Citation|和書|editor=日高市史編集委員会、日高市教育委員会|title=日高市史 通史編|publisher=[[日高市]]|year=2000|ref=日高市史編集委員会、日高市教育委員会 2000}}
* {{Citation|和書|editor=[[広島県]]|title=広島県史 近代現代資料編 1|publisher=広島県|year=1973|ref=広島県 1973}}
* {{Citation|和書|editor=[[松尾正人]]|chapter=多摩の戊辰戦争 - 仁義隊を中心に - |title=近代日本の形成と地域社会 多摩の政治と文化|publisher=[[岩田書院]]|year=2006|isbn=4-87294-429-1|ref=松尾 2006}}
** {{Citation|和書|author=松尾正人|chapter=多摩の戊辰戦争 - 仁義隊を中心に - |title=近代日本の形成と地域社会 多摩の政治と文化|publisher=岩田書院|year=2006|ref=松尾 2006}}
* {{Citation|和書|editor=[[宮崎県]]|title=宮崎県史 史料編 近世 6|publisher=宮崎県|year=1997|ref=宮崎県 1997}}
* {{Citation|和書|editor=宮崎県|title=宮崎県史 通史編 近世 下|publisher=宮崎県|year=2000|ref=宮崎県 2000}}