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=== 統帥権干犯問題===
[[1930年]](昭和5年)、第58帝国議会の[[ロンドン海軍軍縮条約]]の批准をめぐる論議では[[軍縮]]問題を内閣が云々することは[[天皇]]の[[統帥権]]の干犯に当たるとして[[犬養毅]]総裁とともに[[濱口内閣]]を攻撃、[[濱口首相遭難事件|濱口首相狙撃事件]]の遠因となった。
 
また、この時期の政友会は田中義一及び犬養の後任の[[鈴木喜三郎]]両総裁の下でリベラル派が屈服させられて右派・親軍派が主導的になっていったとする見解もあり、この説を採用するならば、義兄・鈴木の入党を田中に仲介したとされている鳩山が結果的にはこうした動きに加担してしまったことになる。
 
さらに[[第2次若槻内閣]]末期には[[山本悌二郎]]、[[森恪]]らと共に陸軍首脳であった[[永田鉄山]]、[[今村均]]、[[東條英機]]らに[[倒閣]]を持ちかけるといった、議会人としては極めて問題のある行動にも及んでいた<ref>この露骨な提案は陸軍からも拒否された。 [[筒井清忠]]『昭和戦前期の政党政治』237頁(ちくま新書、2012年)など。</ref>。
 
こうした行動は戦後になって[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]から「軍部の台頭に協力した[[軍国主義]]者」として追及され、[[公職追放]]の一因となった。
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[[1936年]](昭和11年)2月20日の総選挙で総裁の鈴木が落選するという失態を演じると、鳩山は宮中に工作を行って鈴木を[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員に勅選させ、これを根拠に鈴木の総裁居座りを実現させるが、党内から大顰蹙を買う。
 
鳩山は総裁代理として党を主導しようとしたが、特に軍部と迎合しようとする多数派とは一線を画し、軍に近い[[中島知久平]]・[[前田米蔵]]・[[島田俊雄]]らと対立した。
 
[[1939年]](昭和14年)の政友会分裂に対しては中島を総裁に担いだ前田・島田ら親軍派の政友会革新同盟([[革新派]]、中島派)に対し反中島という点で鳩山と一致した久原を担ぎ[[自由主義]]的な正統派(久原派)を結成したが{{refnest|group="*"|1939年(昭和14年)4月に政友会が分裂した際は久原・[[三土忠造]]・[[芳澤謙吉]]の3人が政友会正統派の総裁代行委員に就任し、1ヶ月後に久原が正統派の総裁に就任した。}}、久原は中島・前田・島田ら以上の親軍派だったためやがて鳩山は久原とも対立した。
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鳩山内閣においては、日本の独立確保という視点から再軍備を唱え、[[憲法改正論議|改憲]]を公約にしたが、与党で改憲に必要な3分の2議席には達しなかった。また、改憲を試みるために[[小選挙区制]]中心の選挙制度の導入を図ったが、野党からはもちろん、与党内からも選挙区割りが旧民主党系寄りという反対があり、「[[ゲリマンダー]]ならぬ[[ハトマンダー]]」と批判され、実現には至らなかった。またエネルギー政策での功績では、[[原子力基本法]]を提出、成立させ後の[[原子力発電]]時代の礎を築いた。
 
鳩山は日ソ共同宣言に署名して帰国した直後に総理・総裁引退の声明を発表。ソ連との国交回復後に内閣総辞職し政界の第一線去っ退いた<ref name=":0" />。その後、[[#友愛青年同志会|友愛青年同志会]]を育成するほかは、療養生活を送り、長男・[[鳩山威一郎]]の末っ子[[鳩山邦夫]]が[[学習院初等科]]4年から5年に進級直前、[[1959年]](昭和34年)[[3月7日]]に衆議院議員在職のまま没した。享年77歳(満76歳没)。
 
なお、鳩山内閣期の[[1955年]](昭和30年)に、[[在日米軍]]の駐留を認める[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|旧日米安保]]に代わる条約として、在日米軍を撤退させ日本の[[集団的自衛権]]を認める「日米相互防衛条約」を検討し、[[重光葵]]外相がアメリカに打診したが、国務長官だった[[ジョン・フォスター・ダレス]]は日本の軍備の不十分さなどから非現実的とこれを一蹴した<ref>[[読売新聞]]([[夕刊]]) [[2010年]]([[平成]]22年)[[7月27日]]</ref><ref>{{cite news