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'''張 浚'''(ちょう しゅん、[[紹聖]]4年([[1097年]]) - [[隆興]]2年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]([[1164年]]
== 略歴 ==
=== 金国との戦い ===
4歳で孤児となるがすでに大人びて慎重、将来の大器をうかがわせた。[[太学]]へ入り[[進士]]となり、[[靖康]]元年([[1126年]])に太常簿となる。その直後、[[汴京
のちに金の将軍の[[粘没喝]]は「中国で自分の敵となりうるのは張浚だけである」と言い、四川を取る望みを絶つよう本国に遺言したという。
=== 内政と軍政 ===▼
[[1135年]]に尚書右僕射・中書門下平章事・知枢密院事・都督諸路軍馬などの重職を兼任する。洞庭の賊を征服し、諸将の会議をおこして侵略された国土の恢復を期し、高宗には『中興備覧』41篇を献じた。[[1136年]]には[[韓世忠]]・[[劉光世]]・[[張俊 (武将)|張俊]]・[[楊存中]]・[[岳飛]]らの将軍を監督して、[[劉豫]]と金軍を討ち、[[濠州]]で[[劉邈]]の軍を破る。[[1137年]]に金紫光禄大夫を加えられたが、[[酈瓊]]の反乱の責任をとって辞職した。▼
▲=== 内政と軍政 ===
▲紹興5年([[1135年]]
紹興31年([[1161年]]
== 学問 ==
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