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== 略歴 ==
=== 金国との戦い ===
4歳で孤児となるがすでに大人びて慎重、将来の大器をうかがわせた。[[太学]]へ入り[[進士]]となり、[[靖康]]元年([[1126年]])に太常簿となる。その直後、[[汴京]]が陥落され、南方へ逃れた[[高宗 (宋)|高宗]]が即位した。高宗の下で累進して礼部侍郎となり、[[金 (王朝)|金]]が必ず来寇すると予測し、国防の必要を力説する。宰相らには杞憂として採用されなかったが、[[建炎]]2年([[1128年]])に金の軍勢が国境を侵しそれに乗じて[[苗傅]]・[[劉正彦]]が反乱を起こすという事態になる。張浚は川陝諸路宣撫使に任命され、ついで知枢密院事となり反乱軍を鎮圧した。四川
のちに金の将軍の[[粘没喝]]は「中国で自分の敵となりうるのは張浚だけである」と言い、四川を取る望みを絶つよう本国に遺言したという。
=== 内政と軍政 ===
紹興5年([[1135年]])、尚書右僕射・中書門下平章事・知枢密院事・都督諸路軍馬などの重職を兼任する。[[洞庭湖|洞庭]]の賊を征服し、諸将の会議をおこして侵略された国土の恢復を期し、高宗に『中興備覧』41篇を献じた。紹興6年([[1136年]])には[[韓世忠]]・[[劉光世]]・[[張俊 (武将)|張俊]]・[[楊存中]]・[[岳飛]]らの将軍を監督して、[[劉豫]]と金軍を討ち、[[濠州]]で[[劉邈]]の軍を破る。紹興7年([[1137年]])、金紫光禄大夫を加えられたが、[[酈瓊]]の反乱の責任をとって辞職した。紹興9年([[1139年]])、資政殿学士に復帰して[[福州 (福建省)|福州]]知州となり、紹興12年([[1142年]])に和国公に
紹興31年([[1161年]])、金帝[[海陵王|完顔亮]]が侵入すると、[[建康府]]通判・行宮留守となり、張子顔を派遣して、金軍を[[海州 (江蘇省)|海州]]に破った。隆興元年([[1163年]])、枢密使・都督建康府を兼ね、[[李顕忠]]に[[霊璧県]]を、[[邵宏淵]]に[[泗県|虹県]]を攻めさせ軍を督促したが[[宿州]]で破れ、「特進」に位が下って江淮宣撫使となる。
== 学問 ==
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