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はじめ[[六角氏]]に仕えたが、[[織田信長]]により六角氏が滅ぼされたのち、[[豊臣秀吉]]に召し出された。[[大津奉行]]、[[草津町 (滋賀県)|草津]]、[[矢橋]]代官を歴任し、その政治的手腕を秀吉に買われ、[[豊臣秀次]]に附けられた。秀次の[[蔵入地]]の管理などを司り、また[[右筆]]も務める。[[天正]]19年([[1591年]])、[[豊臣氏|豊臣姓]]を下賜された<ref>村川浩平『日本近世武家政権論』、近代文芸社、2000年。</ref>。
 
[[文禄]]2年([[1593年]])、秀吉の直臣となる。そのため、文禄4年([[1595年]])の[[豊臣秀次#秀次事件三好孫七郎|秀次事件]]に連座することはなかった。その頃には[[豊後国]]大野、直入、大分、海士辺郡内2万5,000石を領し、その後、[[伊勢国]]安芸郡徳田村、横地村1,300石も加増された。[[越前国]]の[[検地]]奉行なども務める。
 
[[関ヶ原の戦い]]では西軍に属して[[伏見城の戦い]]に従軍したため、戦後失領し浪人となる。その後、[[加賀藩]]の[[前田利長]]に仕えた。