削除された内容 追加された内容
m 同盟軍4500人と戦闘したという記述はソースが皆無であったため修正。同様に高間の指揮で、神機隊によって戦況が逆転したという記述も根拠がないため修正。
タグ: 2017年版ソースエディター
手岡原の戦いで神機隊が先陣となったというソース不明の記述を削除。
タグ: 2017年版ソースエディター
66行目:
その後仙台征討総督・[[四条隆親|四条隆謌]](たかうた)の麾下に入った神機隊は、浜街道の戦いで磐城平から北進。末続村から相馬・仙台・旧幕府軍と戦闘になる。7月26日に発生した第三次広野の戦いでは、同盟軍の激しい攻撃を受け鳥取藩兵と共に辛うじて陣地を保持する状況であった。しかし危急報を受けて長州藩兵2中隊と[[岩国藩]]兵1中隊が正午頃来援した。精強な長州藩兵は、戦況有利で油断していた同盟軍に対して間髪入れずに突入したため同盟軍は仰天して敗走した。鳥取藩兵と神機隊もこれに追従して喊声を挙げて突撃したので攻守は逆転し、同盟軍の潰走の度は増した。同盟軍は仙台藩が隊長2名戦死、相馬藩上級指揮官相馬将監は重傷、春日陸軍隊の隊長1名戦死と隊長の死傷が続出し木戸駅を自焼し、理想の陣地線たる上繁岡北方も放棄して熊ノ町まで潰走した<ref>大山 (1968: 532)</ref>。この日長時間陣地戦をした神機隊は戦死4名の損害を出した<ref>大山 (1968: 532)</ref>。
 
神機隊は、その後も浜街道で同盟軍と戦闘を重ねた。7月28日の手岡原の戦いでは、長州、岩国、鳥取藩兵と共に中央攻撃隊を構成した<ref>大山 (1968: 537)</ref>。本戦闘では、長州、岩国両藩兵が浜街道本道の左右に展開して夜ノ森方面の同盟軍陣地へ射撃しながら前進した。同盟軍は堡塁に籠って頑強に抵抗したが、後続の神機隊も直ちに先頭に参加して攻撃を開始した。この時新政府軍は僅かに広島藩が砲1門を携行していたに過ぎなかったため、放火の火力が不足していた。ここで長州藩兵が戦死2名という損害を出しながらも堡塁に突入し、白兵の末これを占領したため戦況は新政府軍有利に転じ、引き続き追撃して神機隊は長州藩兵などと共に熊ノ町南方の関門を占領した<ref>大山 (1968: 538)</ref>。この日の戦闘では戦闘に立って攻撃前進した長州藩兵が戦死2名、戦傷12名の被害を出したのに対して後発の神機隊は被害を出さなかった<ref>大山 (1968: 538)</ref>。
神機隊は、銃火の前でも正面攻撃する、命を惜しまずの奮戦だった。千代岡原の戦いも先陣となり、神機隊は連戦連勝で、[[官軍]]は強し、という恐怖を敵に与えた。浪江の戦いでは、高瀬川を越えた砲隊長の勇士[[高間省三]]が敵陣一番乗りで戦死し<ref>橋本素助・川合鱗三編「芸藩志」第百二十四巻より</ref>味方に大きな悲しみを与えた。その後も、相馬、駒ヶ峰の激戦地で、神機隊は常に新政府軍の先鋒になり、進撃した<ref>橋本素助・川合鱗三編「芸藩志」第百二十五巻より</ref>。[[仙台藩]]に入城するときには、まともに歩ける隊兵は80人程度となっていた<ref>『本隊300人の兵卒も、漸次(ぜんじ)、減少して、僅(わず)かに80人を残留するに至れり。ただし、軽傷・加藤種之介(実弟は加藤友三郎内閣総理大臣)のごとき負傷治療して再戦できるものも参入した80人である』(芸藩志より)</ref>。
 
神機隊は、銃火の前でも正面攻撃する、命を惜しまずの奮戦だった。千代岡原の戦いも先陣となり、神機隊は連戦連勝で、[[官軍]]は強し、という恐怖を敵に与えた。浪江の戦いでは、高瀬川を越えた砲隊長の勇士[[高間省三]]が敵陣一番乗りで戦死し<ref>橋本素助・川合鱗三編「芸藩志」第百二十四巻より</ref>味方に大きな悲しみを与えた。その後も、相馬、駒ヶ峰の激戦地で、神機隊は常に新政府軍の先鋒になり、進撃した<ref>橋本素助・川合鱗三編「芸藩志」第百二十五巻より</ref>。[[仙台藩]]に入城するときには、まともに歩ける隊兵は80人程度となっていた<ref>『本隊300人の兵卒も、漸次(ぜんじ)、減少して、僅(わず)かに80人を残留するに至れり。ただし、軽傷・加藤種之介(実弟は加藤友三郎内閣総理大臣)のごとき負傷治療して再戦できるものも参入した80人である』(芸藩志より)</ref>。
 
仙台陥落の連鎖で[[会津藩|会津]]も陥落するが、神機隊はこの時点での[[戊辰戦争]]の展開、終結に大きく寄与した<ref name="ex01">『芸藩(広島藩・神機隊)が寡兵で、相馬藩・仙台藩連合の数千人の兵を攻め、つねに単独で敵中に突進している。この芸藩の連戦戦勝の勢いをもって、『官軍強し』という印象を仙台藩に与えた。結果としてわずかな期間で奥羽越列藩同盟の要である仙台藩は敗北し、戊辰戦争の戦局に影響を与えた』