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古代の馬場目川は北方を流れていた。八郎潟町夜叉袋集落の北端には蝦夷湊という地名がある。その昔、この地に馬場目川が流れていたと言われている<ref>『面潟村郷土史』、小野金治、南秋田郡高岡尋常小学校、1936年7月</ref>。平安中期の歌人であり学者である[[源順]]が承久年間(931年-938年)に編纂した『[[和名類聚抄]]』という辞書がある。この辞書は、当時のあらゆる事や物の名前と読み、意味がおさめられていて、見方によっては百科事典とも言える。この本には10世紀半ばの国名・郡名・郷名の全てがおさめられていて、出羽の国の最も北が率浦郷(ひきうらごう)であった。率浦は「率土の果て」という意味で、ここが律令国家の北の果てであった。五城目町の[[森山 (秋田県)|森山]]、[[高岳山 (秋田県)|高岳山]]、[[三倉鼻]]が国の境で、これより北には国・郡・郷は無かった。この地より先は[[蝦夷]]と呼ばれた人たちの土地となっていた<ref>『 秋田県謎解き散歩』、野添憲治、[[新人物往来社]]</ref>。このころの馬場目川は蝦夷の地との境ともなっていた。
 
文治5年([[1189年]])に鎌倉政権に対して反乱を起こした[[大河兼任の乱]]はこの馬場目川(大河)周辺が本拠地である。
 
== 流域の自治体 ==