「リトアニア解放最高委員会」の版間の差分

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ポツダム会談が開かれる前の[[1945年]][[7月10日]]、VLIKは[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]・アメリカ大統領および[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]・イギリス首相に対して覚え書きを送付し、その中でソ連によるリトアニア占領を認めず、ソ連軍のリトアニアからの撤退とリトアニアの独立を支援するよう彼らに求めた<ref name=ger405>[[#Budreckis, 1984b|Budreckis, 1984b]]. pp.405–407.</ref>。他にも、ソ連当局によるリトアニア人に対する人権侵害についての覚え書きが[[国際連合]]や各国の外交官、研究者、ジャーナリストに送られた。VLIKはさらに通信社「[[ELTA]]」を再建し、ラジオ放送も行った<ref name=ger405/>。VLIKはリトアニア国内にいる武装パルチザンとも連絡をとろうとしたが、わずかに[[ユオザス・ルクシャ]]としか連絡を取ることができなかった。
 
VLIK自体はリトアニア国会([[セイマス]])の役割を果たすものとしており、リトアニアの亡命政府と称していた<ref name=lt376/>。しかし、諸外国からリトアニアの亡命政府として承認されることはなかった。また、戦前にリトアニアの在外公館で働いていたリトアニア人外交官はVLIKの指揮下に入るとされた<ref name=lt376/>。リトアニア共和国最後の大統領[[アンタナス・スメトナ]]から[[リトアニアの首相|首相外交部]]に任命された外交官、[[スタシース・ロゾライティス_(1898)|スタシース・ロゾライティス]]はこれに異議を唱え、両者の対立は以後数十年にわたって議論がけられ<ref>[[#エイディンタスほか, 2018|エイディンタスほか, 2018]]. p.364.</ref>。国際承認を得られるリトアニア亡命政府が作られなかった原因は、この両者の対立にある<ref name=lt387>[[#Anušauskas et al. ed., 2005|Anušauskas et al. ed., 2005]]. p.387.</ref>。リトアニア国民の代表とされるVLIKとリトアニア政府の代表とされる外交官とのあいだの対立を解消しようとする試みも見られた<ref name=ger405/>。最初の試みは1946年7月、[[スイス]]の[[ベルン]]で行われた会談にて行われた。このときは執行評議会を設置することが決められたが、実際に設置されることはなかった<ref name=lt380>[[#Anušauskas et al. ed., 2005|Anušauskas et al. ed., 2005]]. p.380.</ref>。続いて1947年8月、[[フランス]]・[[パリ]]で二度目の会談が開かれた。
 
リトアニアから亡命した者が難民キャンプから[[アメリカ合衆国]]へと移るようになると、VLIKも[[1955年]]に本部を[[ニューヨーク]]に移した。その後VLIKの影響力は低下し、活動家らもすぐに冷戦を終結させる方法はないことに気付かされた。VLIKの目的は、ソ連によるリトアニア占領を認めず、鉄のカーテンの向こう側でのできごとを知らせることになった<ref>[[#Bložė, 2000|Bložė, 2000]]. p.4.</ref>。そのために、米英両政府との連絡もとり続けた。
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|last = エイディンタス
|first = アルフォンサス、ほか
|title = リトアニアの歴史
|translator = 梶さやか、重松尚
|year = 2018
|publisher = [[明石書店]]
|isbn = 9784750346434
|ref = エイディンタスほか, 2018
}}
* {{Cite book|和書
|last = カセカンプ
|first = アンドレス
|title = バルト三国の歴史エストニア・ラトヴィア・リトアニア 石器時代から現代まで
|translator = 小森宏美、重松尚
|year = 2014