「ピエール・テイヤール・ド・シャルダン」の版間の差分

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テイヤールは、[[1881年]]、[[フランス]]の[[オーヴェルニュ地域圏|オーヴェルニュ]]地方に11人兄弟の4人目として生まれた。彼の家は[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]時代に叙爵された貴族の家柄である。この地方は火山性地質で、父エマニュエル・テイヤールがアマチュアの自然学者だったこともあり、テイヤールの地質学や古生物学への関心は少年時代に育まれた。1899年、イエズス会の修練院に入り、修練士として学ぶが、修道会がフランスより追放されたことで、[[ジャージー島]]へと移動し哲学を学ぶ。その後、物理学・化学の教師として、[[エジプト]]・[[カイロ]]のイエズス会高等学校に派遣され、エジプトで教師として勤務しつつ、発掘調査などを個人で行う。
 
[[1911年]]、イギリスにおいて[[司祭]]に叙階される。パリ自然歴史博物館([[:en:Muséum national d'histoire naturelle]])で、古生物学者[[マルブリン・ブル]]の弟子となる。[[1922年]]、パリ博物館で博士号を取得し、パリのカトリック学院の教授となる。同じイエズス会士{{仮ク|エミール・リサン|fr|Émile Licent}}神父と出会ったテイヤールは中国に招かれ、地質学と考古学を学び、[[モンゴル]]、[[オルドス地方|オルドス]]等への科学的研究旅行を行う。
 
[[1924年]]、パリに一時帰国したテイヤールは、上長より彼の思想に問題があることを指摘され、中国へと再び戻る。[[1929年]]10月<!--28日-->、テイヤールとカナダ人研究者{{仮リンク|デヴィッドソン・ブラック|en|Davidson Black}}は、パリ博物館に電報を打ち、[[北京原人]]の発見を報告する。[[周口店]]で発見された[[旧石器時代]]の[[石器]]を鑑定して、北京原人がこれらの石器を使用していたと判断した。この後、テイヤールは、[[ゴビ砂漠]]、[[中央アジア]]、[[インド]]、[[ビルマ]]、[[ジャワ]]へと研究旅行に出かける。
 
[[File:CIA Jesuit cemetery 02.jpg|thumb|ニューヨーク州ハイドパークの旧イエズス会修練院の墓地にあるテイヤールの墓(中央)]]
[[1939年]]、日本軍の進出により、[[北京市|北京]]在住の外国人は軟禁状態となるが、テイヤールは、進化についての思索に没頭し、『現象としての人間 (Le Phénomène Humain)』を執筆する。
 
[[1945年]]の[[第二次世界大戦]]終了後、テイヤールは考古学者としての名声のなかでヨーロッパに戻るが、[[カトリック教会]]及びイエズス会はテイヤールの思想を危険なものと見做し、彼を[[ニューヨーク]]へと移転させる。ニューヨークで過ごす日々のあいま、彼はアフリカへと旅し、当時、発見されて間もなかった、[[アウストラロピテクス]]の研究にも携わった。[[1955年]]、ニューヨークにてテイヤールは逝去する
 
[[1955年]]、ニューヨークにてテイヤールは逝去する。[[ニューヨーク州]]{{仮リンク|ハイドパーク (ニューヨーク州)|label=ハイドパーク|en|Hyde Park, New York}}のイエズス会[[ノビシャド|修練院]]セント・アンドリュー・オン・ハドソン(現在は[[カリナリー・インスティテュート・オブ・アメリカ]]のキャンパスとなっている)の墓地に埋葬された。『現象としての人間』は死後間もなく出版された。
 
== 思想 ==