「日本の鉄道事故 (1950年から1999年)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m 外部リンクの修正 http:// -> https:// (www.shugiin.go.jp) (Botによる編集)
→‎1950年代: リンク切れの修復、sty(WP:JPE)、copyedit、lk、dab、cl、+tmp(Cite news、Cite journal、Cite book、Wayback、読み仮名)
27行目:
==== 室蘭本線覚生川鉄橋列車脱線転落事故 ====
; 1950年(昭和25年)[[8月1日]] 22時55分ごろ
:室蘭本線[[錦岡駅|錦多峰駅]](現:錦岡駅)21時25分発[[室蘭駅|室蘭]]行き218列車(11両編成、牽引機[[国鉄C51形蒸気機関車|C51 29]])が同駅を1時間11分遅れで発車、駅から約2[[キロメートル|km]] (km) の地点の覚生(オコップ、またはオボップ)川鉄橋に差し掛かったところ橋脚が崩壊し、1両目客車と2両目荷物車は大破して濁流に呑まれ、3両目客車は4両目客車内に車体を半分突っ込み、死者17人、重軽傷者57人、行方不明者12人<ref>{{Cite webnews |date = 2000-02-21 |url = http://www.tomamin.co.jp/kikaku_/50kinen/k000221.html和書 |title = とまみんが見た50年 1950年 大洪水「買い出し列車転覆」 |publishernewspaper = |accessdate=2015-03-28}}</ref><ref>{{Cite web[[苫小牧民報]] |date = 20082000-1202-0121 |url = http://www.tomamin.co.jp/kikaku_/0850kinen/sakigaketek000221.html |accessdate=2015-03-28 |archiveurl=https:/sakigakete1201/web.htmarchive.org/web/20150402132308/http://www.tomamin.co.jp/kikaku_/50kinen/k000221.html |archivedate=2015-04-02}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title = 「先駆けて」苫小牧市制60周年 第2部 未来への道と信じて―市営バス運行(4)救助活動 |publishernewspaper = 苫小牧民報|date = 2008-12-01 |url = http://www.tomamin.co.jp/kikaku_/08/sakigakete/sakigakete1201.htm |accessdate=2015-03-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150402140810/https://www.tomamin.co.jp/kikaku_/08/sakigakete/sakigakete1201.htm |archivedate=2015-04-02}}</ref><ref group="注">死傷者数は苫小牧市史を出典としている。</ref>を出した。この218列車は、いわゆる「買い出し列車」だった。
: 事故の規模の割に死傷者が少ないのは、発車直後に車掌が函館駅以遠に向かう乗客を5両目以降に移動させたため。
: 約200人を乗せた救援列車が翌日未明に[[苫小牧駅]]西方の錦多峰川鉄橋に差し掛かったところ、そちらでも橋脚が崩壊したが、こちらは軽傷者2人で済んだ。
:
:参考文献:{{Cite book |和書 |author = 堀江敏夫 |title = 苫小牧地方鉄道史 |pages = 92 - 93 |year = 1968 |publisher = 苫小牧地方史研究会 |series = 苫小牧地方史研究叢書 第2集 |doi=10.11501/3442263}}<ref group="注">「オコップ川列車事故」として紹介。</ref>
 
札幌鉄道管理局は、事故の原因として前日までの豪雨で上流部の木造橋が押し流されて鉄橋の橋脚に当たり、三度傾いたところへ列車が進行してきたため脱線転覆したと説明している<ref>「列車河中に転落」『日本経済新聞』昭和25年8月3日3面</ref>。
39行目:
: [[身延線]][[寄畑駅|寄畑]] - [[内船駅|内船]]間を走行していた富士発甲府行き普通列車第615電車([[国鉄62系電車 (初代)|62系電車]](一代目)と[[国鉄32系電車|32系電車]]による4両編成、進行方向前からモハ30173+クハ101+サハ701+モハ62001)が、同区間にある島尻トンネルを走行中に出火し、車両を全焼する事故が発生。
:当時の新聞によると、乗客500名(朝日)または400名(山梨日日)のうち9名が軽傷を負ったものの、死者は発生しなかった。
:事故原因は諸説<ref group="注">事故原因は「落雷により架線が破断して屋根に接触して引火」という説、「落雷による過電流により最後尾車両のモーター出火(国鉄発表)または超過熱(警察発表)」という説もあるが、本文記述の内容のものが、鉄道ジャーナル No.587 2015年9月号 p.132に掲載された「後に発覚した関係者からの情報によるもの」とされている。</ref>あるが、トンネル進入時にパンタグラフが急降下して折り畳まれたことで、パンタグラフと架線との間にできたわずかな隙間に[[電弧|アーク]]が連続発生したことで架線を溶断して垂下させ、最後尾のモハ62001の屋根に接触したことで全車両へと燃え広がったものと推定される<ref>{{Cite journal |和書 |date=2015-07 |journal=[[鉄道ジャーナル]] |issue=No.585 |publisher=鉄道ジャーナル社 |pages=126-127}}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |date=2015-09 |journal=鉄道ジャーナル |issue=No.587 |publisher=鉄道ジャーナル社 |page=132}}</ref>
:なお、身延線のトンネルは国鉄の他の路線と比較して天地寸法が狭小であり、その走行に対しては屋根高さやパンタグラフの折り畳み高さが低くなるようにした専用車両を要する。しかし、この編成に含まれるモハ30173は本来はトンネルのない[[富士駅|富士]] - [[西富士宮駅|西富士宮]]間の区間運転用の車両であり、身延線のトンネル通過を禁じられていた車両であったのだが、誤って甲府行きに充当されてしまったために事故を起こしたとみられる。
</ref>あるが、トンネル突入時にパンタグラフが急降下して折り畳まれたことで、パンタグラフと架線との間にできた僅かな隙間に[[電弧|アーク]]が連続発生したことで架線を溶断して垂下させ、最後尾のモハ62001の屋根に接触したことで全車両へと燃え広がったものと推定される。<ref>『[[鉄道ピクトリアル|鉄道ジャーナル]]』No.585、鉄道ジャーナル社、2015年7月、 126-127頁。</ref><ref>『[[鉄道ピクトリアル|鉄道ジャーナル]]』No.587、鉄道ジャーナル社、2015年9月、 132頁。</ref>
:なお、身延線のトンネルは国鉄の他の路線と比較して天地寸法が狭小であり、その走行に対しては屋根高さやパンタグラフの折り畳み高さが低くなるようにした専用車両を要する。しかし、この編成に含まれるモハ30173は本来はトンネルのない富士~西富士宮間の区間運転用の車両であり、身延線のトンネル通過を禁じられていた車両であったのだが、誤って甲府行きに充当されてしまったために事故を起こしたとみられる。
:編成全車両が全焼したが、モハ62001は焼損状態のまま[[西武鉄道]]へ譲渡され、モハ30173は国鉄豊川分工場でクハ47023に改造のうえ復旧<ref group="注">「17m級魚腹台枠車体」のモハ30から「20m級平形台枠車体」のクハ47への改造は、車体台枠の転用すらできないため種車として正しいとは言い難い。
 
ここでいう「改造」は書類上の措置であり、車両自体は一から作り直すものの車籍情報だけを転用させることで「事故廃車(および代替新製車)を計上させない」という帳簿上の工作であったものとも考えられるが、今のところはっきりとした理由が明示された文献などは見つかっていない。また、改造当初の台車は、旧豊川鉄道サハ1形からの流用TR11形とされているので、モハ30形から流用されたものはほぼ無いに等しいと考えられる。</ref>したが、中間のクハ101とサハ701については記録がなく廃車されたものと思われる。<ref>{{Cite journal |和書 |author=大塚太夫 |title=鉄道事故はどうして復旧するか |date=1954-03 |journal=[[鉄道ピクトリアル]] S29.3 p|issue=No.32 |publisher=[[電気車研究会|電氣車研究會]] |page=9}}</ref>
:
:事故に遭った62系電車は、身延線用として折りたたみ時の高さを低く抑えたパンタグラフを導入していたが、この事故により離線距離が充分確保されていないと判断された。事故後はパンタグラフ折畳高さ上限を3,960 [[ミリメートル|mm]] (mm) <ref group="注">同様に狭小であった[[中央本線|中央東線]]高尾以西が3,980 mmであり、国鉄時代の電化区間では最も厳しいものとなった。なお、民営化後に電化された[[予讃線]]の[[鳥越トンネル]]走行区間はこれよりさらに厳しく、折畳高3,900 mmの制約を受けている。</ref>と定められ、同時に身延線を走行する車両に対してパンタグラフ搭載部を低屋根化する改造工事、および不適合車両の他地域転配などが行われている。
:その後も身延線へ投入された[[国鉄80系電車#改造形式|80系800・850番台]]や[[国鉄165系電車|165系]]、[[国鉄72系電車#アコモデーション改良車|62系(2代目)]]、[[国鉄115系電車#モハ114形2600番台|115系2600番台]]、[[国鉄143系電車|クモユニ143]]、[[国鉄123系電車|123系]]、[[JR東海373系電車|373系]]、[[JR東海313系電車|313系]]といった後継車両においても、必ずパンタグラフ部の屋根高を低く抑えた車両や、[[集電装置#低屋根車両・装置移設車両|パンタグラフ自体を狭小トンネルに対応したもの]]が搭載されている。民営化後の[[東海旅客鉄道|JR東海]]においても車両新造の際は一部の車両<ref group="注">JR東海発足後に新製された[[国鉄211系電車|211系5000番台]]の初期車や[[JR東海371系電車|371系]]、[[JR西日本285系電車|285系]]など。
 
ただし、285系は更に狭小とされるJR四国管内の鳥越トンネル区間を営業列車として走行したことがある。
53 ⟶ 52行目:
211系5000番台初期車や371系も、後年にパンタグラフを狭小対応のシングルアームタイプに載せ換えているほか、2020年現在JR東海が保有する全在来線電車のパンタグラフ搭載車には、身延線入線運用の有無を問わず、狭小トンネル対応を示す「◆」のマークが車番とともに標記されている。</ref>を除き、身延線への入線を考慮した屋根高さで新規設計されたり、既存車にも折り畳み高さを低く抑えられるシングルアームパンタグラフに載せかえるなどの対策を行なっており、現在に至るまで建築限界上の特別な影響を受けている。
:
:また、身延線同様に狭小トンネルを有する中央本線においても、「狭小とされるトンネルを45km45[[キロメートル毎時|km/h]]以下で通過すること」を条件に通常の屋根高さの車両が使用されることがあったが、当事故後にそれを一掃するべく、翌年の1951年7月からモハ30形7両を低屋根改造のうえで中央山線専用配備したほか、防火性と狭小トンネルに対応した初の全金製低屋根電車モハ71形試作車も登場した。
:この事故によって、国鉄の車両火災・トンネル事故対策の契機にはなったものの、翌年1951年には後述される[[桜木町事故]]によって当事故よりも多くの死傷者・被害を出す大惨事が起こってしまった。
 
==== 広島電鉄宮島線多重衝突事故 ====
; [[1950年]](昭和25年)[[12月24日]]8時45分頃
: [[広島電鉄]][[宮島線]][[楽々園駅]]西側の踏切にて、自動車と上り電車が衝突。電車が脱線したところに下り電車が衝突した(朝日新聞では三重衝突と表現している)。自動車の運転手1人が死亡、電車の乗員乗客12人が重軽傷<ref>{{Cite news |和書 |title=廣島で三重衝突 十三名が死傷」『 |newspaper=[[朝日新聞』昭和25年]] |date=1950-12-25}}</ref>。
 
==== 桜木町事故 ====
74 ⟶ 73行目:
==== 日暮里駅構内乗客転落事故 ====
; 1952年(昭和27年)[[6月18日]] 7時45分
: 国鉄[[日暮里駅]]構内の南跨線橋の10番線に面した羽目板が利用客の重量に耐え切れなくなり破損、数十人が7 [[メートル|m]] (m) 下の線路に転落した。折りしも通りかかった[[京浜東北線]]浦和行き電車にはねられ8名が死亡、5名が重軽傷を負った。
: 事故原因は跨線橋([[1928年]]建設)が老朽化していて、さらに破損箇所は将来延長する予定だったため補強がされていなかった<ref>『毎日新聞』1952年6月18日夕刊3面。11・12番線は当時まだ無かった。</ref>こともあるが、当日の未明に上野駅構内で信号所火災が発生して、東北本線の上り列車が日暮里に臨時停車していたことに加え、並行する京浜東北線でも6時56分に車軸が破損するトラブルがあって一時運行を中止していたため、平常以上の乗客で混雑したためでもある。上野方に急カーブがあり見通しが利かず運転士による発見が遅れたことが被害を拡大した。
<gallery widths="250px" heights="200px">
94 ⟶ 93行目:
==== 東海道本線東田子の浦列車衝突事故 ====
; 1955年 (昭和30年)5月17日2時19分
: [[東海道本線]][[原駅 (静岡県)|原]] - [[東田子の浦駅|東田子の浦]]間の植田踏切で[[京都駅|京都]]発[[東京駅|東京]]行[[修学旅行列車]](列車番号3138・EF58 66+客車11両・乗客837名)の機関士が立ち往生していた[[在日アメリカ合衆国軍]]の[[貨物自動車|トレーラー]]を発見。列車は非常制動を掛けたが間に合わず衝突。120 mほど走行し停車した。衝突のショックで大破したトレーラーの荷台に搭載されていた揮発油を原料としたペンキに引火した。
: 火は編成中3号車に組成されていたスハ32 266に延焼。さらに機関車と客車4両を全焼、1両を半焼させた。深夜の事故にもかかわらず、機関士・機関助士・車掌・乗客・周辺住民が連携し後部6両は切り離されて延焼を回避した。また乗務員による乗客の避難誘導により重傷2名・軽傷31名を出したものの、死亡者は出なかった。
: 被災車両は大きく損傷したものの、全車廃車とならず以下の修復作業を実施。
110 ⟶ 109行目:
; 1956年(昭和31年)[[10月15日]]
: [[参宮線]](当該箇所は現在の[[紀勢本線]])[[六軒駅 (三重県)|六軒駅]]での列車衝突事故。
: 同駅を通過の予定だった名古屋発鳥羽行き下り[[快速列車]]機関士が、出発信号機の直前で停止現示を認めて非常制動を執ったが、当該信号機手前に停止できず[[安全側線]]に突っ込み脱線し、本線上に横転したところに上り列車が進入して上下列車ともに衝撃大破。死者42名、負傷者94名。客車上に大破した蒸気機関車が乗り上げて客車内に高温高圧の蒸気が吹き込んだため火傷、やけどによる死傷者が多かった。
{{Main|六軒事故}}
==== 東京都水道局小河内線列車転覆事故 ====
128 ⟶ 127行目:
; [[1958年]](昭和33年)[[6月10日]] 15時28分
: [[山陰本線]][[八木駅|八木]] - [[千代川駅|千代川]]間の愛田川関踏切で、[[園部駅|園部]]発[[京都駅|京都]]行き普通列車に[[京都交通 (亀岡)|京都交通]]の貸切バスが衝突、引きずられ大破し麦畑に転落した。この事故でバスに乗っていた[[亀岡市立亀岡小学校]]5年生一行のうち、4名が死亡、38名が重傷、50名が軽傷を負った。列車側も牽引していた[[国鉄C55形蒸気機関車|C55]]蒸気機関車が転覆し、客車2両が脱線。
: 事故現場には同級生である卒業生有志により1961年の命日に慰霊碑が建立された<ref>{{Cite book |和書 |editor = 亀岡市史編さん委員会 |title = 新修亀岡市史 資料編 第3巻附録 「グラフかめおか20世紀」 |page = 92 |year = 2000 |publisher = 亀岡市 |id={{全国書誌番号|20126824}}}}</ref>。
 
==== 特急かもめ米軍トレーラー衝突事故 ====
; 1958年(昭和33年)[[8月14日]] 14時03分
: [[山陽本線]]の[[南岩国駅|南岩国]] - [[岩国駅|岩国]]間にある菊池踏切で、[[博多駅|博多]][[京都駅|京都]]行きの特急「[[かもめ (列車)#山陽本線・鹿児島本線特急「かもめ」の運行開始|かもめ]]」(10両編成)に米海兵隊[[岩国基地]]所属の米軍人が運転するトレーラートラックが衝突。トレーラーは50 m引きずられて大破、かもめ側も牽引蒸気機関車([[国鉄C62形蒸気機関車|C62 4]])と1両目客車([[国鉄10系客車|ナハフ11 9]])が脱線し「く」の字状に転覆した。また後続の客車2両も脱線した。この事故で特急の乗員乗客43名が重軽傷を負った。
: 事故原因はトレーラーの運転手の警報無視による。これは下り貨物列車の通過後、引き続いて上り特急列車が通過する警報が出ていたのを無視して横断を強行したため。また踏切には遮断棒がなく事故現場が緩やかなカーブであったのも災いした。
: 牽引機関車は廃車されたが、1両目のナハフ11は復旧された。
138 ⟶ 137行目:
==== 名鉄名古屋本線一ツ木駅衝突火災事故 ====
; 1958年(昭和33年)[[11月24日]]
: [[名古屋鉄道]][[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]の[[一ツ木駅]]構内の踏切で、一時停止を怠った[[オート三輪]]が[[名鉄岐阜駅|新岐阜]]発[[豊橋駅|豊橋]]行特急に衝突し、積載していた[[シンナー]]が原因で火災が発生し、車両2両が全焼した。この事故で列車の乗務員2人が殉職したのを始め、死傷者は36人に上った<ref>{{Cite book |和書 |editor = 名古屋鉄道株式会社社史編纂委員会 |title = 名古屋鉄道社史 |page = 397 |year = 1961 |publisher = 名古屋鉄道 |doi=10.11501/2494613}}</ref>。
 
:全焼したのは[[名鉄3850系電車|3850系]]モ3857とク2857で、翌1959年4月に車体を新製して復旧した<ref>{{Cite journal|和書|title=”読者短信”に見る名古屋鉄道の記録 1950年代 - 1960年代前半|date=2015-02|publisher=電気車研究会|journal=鉄道ピクトリアル アーカイブス セレクション|number=30|page=168}}</ref>。
149 ⟶ 148行目:
; 1959年(昭和34年)[[4月6日]] 4時45分ごろ
: [[播但線]][[生野駅 (兵庫県)|生野]] - [[長谷駅 (兵庫県)|長谷]]間の真名谷トンネル北側(生野駅より長谷方約4 km)で、[[福知山駅|福知山]]発[[溝口駅|溝口]]行きの臨時回送上り8630列車(7両編成)が脱線転覆し、蒸気機関車 ([[国鉄C54形蒸気機関車|C54 5]]) と前部3両が大破、[[西日本旅客鉄道福知山支社|福知山]]鉄道管理局[[豊岡鉄道部|豊岡]]機関区所属の機関士と機関助手の2人が即死した。機関車はトンネル内に頭を突っ込み横転、1両目は崖に乗り上げ、2両目は下腹を見せて転覆、その上に3両目が乗り上げたため、生野 - [[寺前駅|寺前]]間が不通となった。C54 5も原形を留めぬほど大破し、その後廃車、解体処分された。
: この時、機関車は逆向き運転をしており、[[炭水車]]側からトンネル側壁に衝突したため、運転台は炭水車に押しつぶされた状態になっており、乗務員の遺体収容は凄惨な状態だったという。原因としては、生野駅手前([[新井駅 (兵庫県)|新井駅]]側)にある生野トンネル (614.73 m) が、播但線において難所とされている[[生野峠]]から続く25[[パーミル]] (‰) という上り勾配で、かつ、開口面積が狭いため、通過の際に乗務員が{{読み仮名|煤煙|ばいえん}}により意識を失い、登坂のために加減弁が引かれた状態のまま下り勾配を駆け下りたこととされている。
: この事故の後、播但線の[[蒸気機関車]]乗務員に対し、非常用の[[ガスマスク]]が支給され、翌年には生野峠越え用補機として、当時最新鋭の[[国鉄DF50形ディーゼル機関車|DF50形]]ディーゼル機関車が配備されることとなった。
: 現場の線路脇に、遺族らが建立した慰霊碑が残されている(兵庫県神崎郡[[神河町]]渕地区)。
:* 外部リンク:[https://web.archive.org/web/20090319080756/{{Wayback |url=http://www.kobe-np.jp/chiiki/rensai/200604ginnomichi/03.html |title=『銀のみち 鉄の路 ―1906 - 2006 播但線全通100年』 3. 弔魂碑] |date=20090319080756}}([[神戸新聞社|神戸新聞]])
 
==== 阪急電鉄西宮北口駅脱線正面衝突事故 ====
; [[1959年]](昭和34年)[[6月17日]] 夕方
: [[阪急電鉄]][[阪急神戸本線|神戸本線]][[西宮北口駅]](兵庫県西宮市)に到着しようとしていた[[大阪梅田駅 (阪急)|梅田駅]]発[[三宮駅|神戸駅]]行普通列車(4両編成<ref group="注">800-850+801-851の4両編成であった。</ref>)が、駅に停車し切れずに暴走、[[ダイヤモンドクロス]]を乗り越えて脱線し、特急電車を待避する為に神戸本線上りホームに停車中の梅田行普通列車の正面に衝突。重軽傷者44名を出した。
:この事故で、神戸行普通列車の先頭車だった[[阪急800系電車|800形]]851号車は前面・側面を大破したが修理され、[[1982年]](昭和57年)まで現役で使用された。
 
==== 浜松駅準急「東海」衝突事故 ====
; 1959年(昭和34年)[[10月8日]] 4時8分ごろ
: 東海道本線[[浜松駅]]構内に進入した、[[東京駅|東京]][[大垣駅|大垣]]行き下り準急309T列車「[[東海 (列車)|東海]]3号」([[国鉄153系電車|153系電車]]12両編成)が、同駅に停車していた機関車と衝突。乗客25名と運転士2名が負傷。原因は運転士の居眠りによるものとされた。「東海3号」の先頭車(クハ153-12)は、運転室部に大きな損傷はなかったものの、運転席側の客用扉戸袋窓付近が潰れて、前頭部がお辞儀をしたように車体が[[座屈]]した。[[東海旅客鉄道浜松工場|浜松工場]]に収容された事故車は検証が行われ、衝突時の衝撃が台枠から側構に伝わり、強度的にいちばん弱かった戸袋窓部に集中した結果、車体がお辞儀をしたように変形したものと判明した。対策として、増備車では側柱部に補強を入れるなどの設計変更を実施し、戸袋窓の補強を行っている<ref>{{Cite book |和書 |author=[[福原俊一 (電車発達史研究家)|福原俊一]] |year=2006 |title=国鉄急行電車物語」 P.75 - 76 |publisher=[[JTBパブリッシング]] 2006年|pages=75 ISBN- 76 |isbn=4-533-06472-8 }}</ref>。
 
==== 名鉄名古屋本線大里駅踏切衝突事故 ====