「関白相論」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
14行目:
問題の天正13年の朝廷の人事については、『[[公卿補任]]』をはじめ当時の朝廷人事に関する史料、記録、文書の日付がバラバラで余りにも錯綜しているため、同年前半の任官記録を矛盾なく並べることが事実上不可能で、歴史学者の間でも頭を悩ませている問題であるが、大まかな流れとして左大臣が一条内基から二条昭実、更に近衛信輔に移り、右大臣は二条昭実から近衛信輔<ref>ただし本人直筆の記録には、右大臣を飛ばして内大臣から左大臣に就任したと記されている。</ref>、更に[[菊亭晴季]](前内大臣)に移り、内大臣は菊亭晴季から近衛信輔を経て秀吉の就任に至ったと考えられている。遅くとも天正13年5月段階では関白・二条昭実、左大臣・近衛信輔、右大臣・菊亭晴季、内大臣・羽柴秀吉が在任していたとされている。更に予定では菊亭晴季の辞任を前提に秀吉を右大臣に昇進させ、二条昭実は1年程度の関白在任を経て近衛信輔に関白を譲り、信輔は引き続き左大臣を兼ねる予定であったようである。
 
ところが秀吉は右大臣就任の打診に対して事実上拒否を表明したのである。理由は「主君であった信長は右大臣を[[極官]]として光秀に殺害されており、右大臣は縁起が悪いので出来るならば右大臣は避けて左大臣への昇進をお願いしたい」というものであった。朝廷内部では天下人・秀吉を遇するには内大臣では不足であると考えられており、秀吉が右大臣を嫌って左大臣を望む以上、要求通りにするために現在の左大臣である近衛信輔を辞任させて、秀吉を左大臣に昇進させることは避けられないと考えられていた。
 
== 近衛・二条の相論 ==
これを聞いた近衛信輔は、前官(前職大臣)の状態で関白となることを嫌い、在任わずか半年の二条昭実に関白を譲るように迫った。信輔は「[[近衛家]]では前官(前職大臣)の関白の例はない」と主張して、左大臣を秀吉に譲る前に現職の大臣として関白に就任したい旨を正親町天皇に奏上した。これに対して昭実は「[[二条家]]では初めて任命された関白が1年以内に辞めた例はない」と主張して信輔の理不尽な要求を退けるように訴えた。
 
この天正13年の5月から6月にかけて、当時相論で行われていた「[[三答]]」と呼ばれる手続きに従い、信輔は4度(本来は3度であるが補足として4度目の意見書を出した)、昭実は3度意見書を提出して、互いに自己の主張の正当性と相手の主張の誤りを主張し述べた。そして、最後には信輔が[[摂関家]]筆頭としての近衛家の立場を強調すれば、昭実も[[正平の一統]]後の混乱下での二条家による[[後光厳天皇]]擁立の功績を挙げるなど、議論は泥沼化の様相を見せ始めた。
 
これにより、朝廷内部は信輔派と昭実派の二派に分かれたものの、一見暴論でありながらも、予想外の事態で左大臣を失うことになるかもしれない信輔への同情は意外に強く、決着のつく見通しは立たなかった。