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[[File:野田城絵図.jpg|thumb|250px|right|愛知県新城市野田城の絵図]]
[[File:野田城.JPG|thumb|250px|right|愛知県新城市野田城]]

'''野田城'''(のだじょう)は、[[愛知県]][[新城市]]豊島にある[[日本の城]]。

== 概要 ==
別名「'''根古屋城'''」、「'''三河野田城'''」とも呼ぶ。[[1505年]]([[永正]]2年)に菅沼氏が築城した城である。最寄り駅はこの城の名より名付けられた[[東海旅客鉄道|JR]][[飯田線]][[野田城駅]]下車徒歩で約15分。
 
== 城の構造 ==
[[本丸]]、[[二の丸]]、[[三の丸]]、[[廓]]、[[侍屋敷]]が直線状に(=[[天守|連鎖式]])位置し、城の両隣には淵があり天然の堀として使われた。
[[File:野田城絵図.jpg|thumb|300px|愛知県新城市野田城の絵図]]
[[本丸]]、[[二の丸]]、[[三の丸]]、[[廓]]、[[侍屋敷]]が直線状に(=[[天守|連鎖式]])位置し、
城の両隣には淵があり天然の堀として使われた。
 
== 歴史 ==
* [[1508年]] - [[菅沼定則]]によって築城され、居城とされた。[[菅沼定則|定則]]の子・[[菅沼定村]]、孫・[[菅沼定盈]]らも居城とした。
* [[1561年]]  - [[桶狭間の戦い]]の後、[[今川氏]]を離反した定盈は、今川勢に攻囲され開城退去。
* [[1562年]]  - 定盈が夜襲で奪回するも、損壊の激しい野田城は修築に刻を費やされた。定盈は、仮本拠を[[大野田城]]に定めている。
* [[元亀]]2年([[1571年]])  - [[武田氏]]の遠江・三河侵攻において武田家臣[[山県昌景]]・[[小笠原信嶺]]らの襲来により、大野田城は大破炎上。同年12月、定盈は修築中の野田城を再び本拠としたという。なお近年では元亀2年の遠江・三河侵攻については根拠となる文書群の年代比定が再検討され、一連の経緯は天正3年の[[長篠の戦い]]の前提である可能性が指摘されている。
* [[1573年]]  - [[野田城の戦い]]。武田軍に水の手を断たれて、城主・定盈は開城降伏する。
* [[1590年]]  - [[徳川家康]]が[[関東]]へ移封されると、定盈も付随。その後、[[吉田城 (三河国)|吉田城]]に入った[[池田輝政]]の代官が[[新城市|新城]]を利用し、野田城を破却。廃城となった。
 
== この城に関連する出来事 ==
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== 現在の野田城 ==
*現在は雑木などが生い茂っているが、土塁と空堀は現在も存在している。
[[File:野田城.JPG|thumb|愛知県新城市野田城]]
 
*現在は雑木などが生い茂っているが、土塁と空堀は現在も存在している。
*野田城跡の北側斜面を含む谷が、建設残土で埋め立てられつつあって問題になっている。
 
*本丸にあった門は近くの寺に移築している。
 
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[野田城の戦い]]
* [[菅沼定盈]]
* [[設楽貞通]]
* [[武田信玄]]
* [[日本の城一覧]]
 
== 外部リンク ==