「女鳥羽川」の版間の差分

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江戸時代以前、市街地部分の女鳥羽川は現在[[松本城]]がある地点の西側を北北東から南南西にほぼ真っすぐ流れていた。それを16世紀後半にこの地を支配するようになった[[武田氏]]<ref>『松本まるごと博物館 ガイドブック』[[松本市立博物館]]、2008年3月、61ページ</ref>が[[城下町]]を造営する際に、松本城の外[[堀]]の機能を持たせるために真直ぐ南下させて急に西にカーブするよう流路を人工的に変更したものである。この部分は上流よりも川幅が狭く、このため、大雨の際には[[氾濫]]しやすくなったと言われる。
 
[[1959年]]8([[昭和]]34年)8月、[[台風]]7号が長野県内を通過した。台風7号は松本市を直撃し、大きな被害をもたらした。女鳥羽川は、上流からの流木が橋脚に絡まり、そこへ流されてきたゴミなどが絡まり水をせき止める格好となった。このせき止めにより女鳥羽川は市中心部で氾濫し、市内は泥まみれになり4,000戸もの家屋に被害があった。これを教訓に女鳥羽川にかかる橋には橋脚が取り付けられていない。市内中心部を流れているため、川幅の拡幅はできないので、川底を深くして氾濫を防ぐ工事が長野県奈良井川改良事務所により行われている
市内中心部を流れているため、川幅の拡幅はできないので、川底を深くして氾濫を防ぐ工事が長野県奈良井川改良事務所により行われている。
 
=== 水運 ===
[[File:Metoba river & Tagawa river.jpg|thumb|right|300px|女鳥羽川と田川の合流地点。この画像の右側に「犀川通船船着場跡碑」がある。この日の女鳥羽川には泥濁りがあった。2012年3月21日撮影]]
[[File:Tusen-hi2.JPG|thumb|right|300px|女鳥羽川と田川の合流地点に建てられている「犀川通船船着場跡碑」]]
[[1832年]]([[天保]]3年)に、[[筑摩郡]]白板村の折井儀右衛門が許可を受けて[[犀川通船]]事業を始めた<ref>塚田正朋『長野県の歴史』[[山川出版社]]、1974年5月、176ページ</ref>。[[松本藩]]では女鳥羽川と[[田川 (長野県)|田川]]の合流点に船会所を設けた。[[明治]]時代になると、折井氏の独占権がなくなり、いくつかの通船会社ができた。通船の発着所は、一時は女鳥羽川の千歳橋付近に移されたこともあった。[[1902年]]([[明治]]35年)に[[篠ノ井線]]が開通すると、松本からの通船は廃止された。[[1968年]](昭和43年)、女鳥羽川船着き場の対岸に「犀川通船船着場跡碑」が建立された<ref>『松本まるごと博物館 ガイドブック』松本市立博物館、128ページ</ref>。
 
== 流域の自治体 ==
; 長野県
: [[松本市]]
 
== 橋梁 ==
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=== 歌 ===
* 女鳥羽川 - [[演歌]][[歌手]][[大木綾子]]のデビュー曲。
 
=== 短歌 ===
* 松本の町二(ふた)分(わ)くる女鳥羽川 清き流れの瀬の音絶たず - [[窪田空穂]]
 
== 脚注 ==
{{reflist}}
 
{{Commonscat|Metoba River}}
{{Reflist}}
 
{{信濃川水系}}