「ジェフ・エメリック」の版間の差分

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ジェフ・エメリックが最初に勤めた[[録音スタジオ|レコーディング・スタジオ]]は[[EMI]] ロンドン・スタジオ (現:[[アビー・ロード・スタジオ]]) で、15歳の時に[[アシスタント・エンジニア]]として入ることになった。そしてビートルズの担当エンジニアだった[[ノーマン・スミス]]のアシスタントとして、ビートルズのレコーディング・セッションに参加していた。彼が初めて参加したのは1962年頃で、[[ピート・ベスト]]から[[リンゴ・スター]]へとドラマーが交替し、最初のシングル「[[ラヴ・ミー・ドゥ]]」を制作していた時期になる。そして初期の数々のビートルズ・セッションでアシスタントを続けるほか、EMIレーベル内の他の仕事も時々手伝うようになり、[[ジュディ・ガーランド]]のセッションや、EMI側からの要請で[[ホリーズ]]のテスト・レコーディングなどへも参加するようになった。
 
アシスタント・エンジニアからチーフ・エンジニアへの昇格は、1966年にイギリス国内でNo.1 ヒットとなった、[[マンフレッド・マン (バンド)|マンフレッド・マン]]の「プリティ・フラミンゴ」(''[[:en:Pretty Flamingo|Pretty Flamingo]]'') のエンジニアリングを担当した事が切っ掛けとなっている。チーフ・エンジニアだったノーマン・スミスが新人アーティストのプロデュース業も行うようになり、ビートルズだけに専念できなくなってきたため、[[ジョージ・マーティン]]の希望で、その後釜としてジェフ・エメリックが抜擢された。1966年発表のアルバム『[[リボルバー (アルバム)|リボルバー]]』のレコーディングが、チーフ・エンジニアとしては初めてのビートルズのセッションへの参加となる。『リボルバー』に収録されている「[[トゥモロー・ネバー・ノウズ (代表的なトピック)|トゥモロー・ネバー・ノウズ]]<!-- 「WP:CARMEN」に基づく内部リンクの設定ですので、変更しないでください。 -->」がジェフ・エメリックにとってビートルズ作品で最初にエンジニアリングを担当した曲であるが、[[ジョン・レノン]]の「[[ダライ・ラマ]]が[[チベット]]の山頂から説法しているような歌の聴こえ方にして欲しい」という抽象的な要望を実現させるために、[[ロータリースピーカー|レスリー・スピーカー]]を駆使したコーラス効果など、様々なエフェクトや録音方法のアイデアなどを考案した。これがビートルズのメンバーとジョージ・マーティンに気に入られ、この時に開発した手法はビートルズの中期以降の作品におけるサウンド作りの出発点となっている。「トゥモロー・ネバー・ノウズ」では曲の後半に掛けてボーカル以外のバッキング・トラックもレスリー・スピーカーへ送り、ワン・コードでペダル・ノートに近いコード進行の曲に対して斬新なアプローチでエンジニアリングするなど、当時のポピュラー音楽の手法に様々なアイデアも持ち込んだ。
 
他にも『リボルバー』では「[[ゴット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ]]」におけるオン・マイキング <ref>マイクロフォンを楽器の発音源に対して非常に近づけた状態で集音するマイキングの事。当時はマイクロフォンに対して、ダイアフラム(音源からの音響的空気波動を音声信号としての電気信号に変換するための丸い形状の非常に薄い金属製プレートの受音部分)へのダメージを危惧するため、EMI ロンドン・スタジオのテクニカル・エンジニア側からは「決して楽器の音源に対して近づけすぎないように!」と禁止令が出されていた。</ref> で収録されたブラス・セクションのサウンドや、同様にドラムスのバス・ドラムに対して立てられるマイクロフォンもオン・マイクで設置し、「[[タックスマン]]」で聴けるようなアタック成分を強調した音を作るなど、それまでのエンジニアリング手法をどんどん変革していった。