「三倉鼻」の版間の差分

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[[1907年]](明治40年)7月17日、[[河東碧梧桐]]が三倉鼻を訪れ、『[{{NDLDC|1111788/44}} 三千里]』にそれを記録した。「三倉鼻は湖上の眺望第一に押されておる。が、汽車が通じ、国道が穿たれて、殆ど旧観を止めぬようになった。子規子が来た当時はまだ見るべき松の大樹が丘上に林をなしておって、その松の木の間から湖を見るような景であった。今はその松の樹など、一本も残っておらぬ。なお近頃はここを郡の公園にするというて、台のように土を盛ったり、附近の山々に松や躑躅を植えつけたという。汽車道の上に山から山へ空橋を架ける計画にもなっておるそうな。[[日比谷公園]]で見るようなペンキ塗りの白い板にパークと英語で書いた立札が目につく」と記し、また三倉鼻における頼三樹三郎の漢詩と、学内茶屋の主人がそれを得た時のエピソードを記している。
 
[[1947年]](昭和22年)6月16日、[[斎藤茂吉]]は八郎潟と三倉鼻を訪れた。その前日、[[秋田魁新報]]主催の全県短歌大会があり、その年まだ[[山形県]]に疎開したまま帰京していない斎藤茂吉を迎えたものであった。次の日に八郎潟に遊びたいというので、斎藤茂吉と山形から同行していた[[結城哀草果]]、[[板垣家子夫]]、弘前の赤坂文也、秋田の[[大黒富治]]、[[坂本稲次郎]]、[[茂木保子]]、画家の[[館岡栗山]]、秋田魁新報からは[[武塙三山]]社長、[[武塙永之助]]文化部部長、斉藤企画部長、[[石田玲水]]が参加した。汽車や自動車で[[一日市町]]まで移動し、[[馬場目川]]の橋のそばにある家で舟を待って、一行は舟で馬場目川を下った後に八郎潟に繰り出した。湖上は小雨が降り少し寒かったが、茂吉はいろいろな事を聞きただしてそれをメモし後に名句を作り『白き山』で発表した。「三倉鼻に上陸すれば暖し野のすかんぽも皆丈たかく」三倉鼻に上陸すると、雨上がりで道がすべって斉藤茂吉は登るのに苦労した。ゴム靴に縄をからげたり、手を引いたり後を押したりして登った。「眼(まな)下に行々子(よしきり)の鳴くところありひとむら葦は青くうごきて」三倉鼻山頂からは「あま雲のうつろふころを大きなるみづうみの水ふりさけむとす」「眼下(まなした)に行々子(よしきり)の鳴くところありひとむら葦(よし)は青くうごきて」「あまのはらうつろふ雲にまじはりて寒風(さむかぜ)のやま真山(まやま)本山(もとやま)」「二郡(ふたこほり)境(さか)ふ岬のうへにして大きくもあるかこのみづうみは」「秋田あがたの森吉山(もりよしやま)もここゆ見ゆ雲のうつろふただ中にして」「岬なる高きによればかの舟は帰りゆかむと帆をあげにけり」「追風にややかたむきて行く舟を高きに見れば恋しきに似たり」と歌っている。民家に立ち寄って獲ったばかりの魚を煮て昼食をとった。「あかあかと開けはじむる西ぞらに男鹿半島の低山(ひくやま)うかぶ」「水平に接するところ明(あか)くなりけふの夜空に星見えむかも」一行は別れ、茂吉と武塙社長はバスで帰った<ref>『八郎潟風土記』、石田玲水、[[1956年]]12月、p.20-25</ref><ref>『斎藤茂吉歌集 白き山研究(補正版)』、斎藤茂吉記念館編、短歌新聞社、2001年、p.180-182</ref>。ただ、板垣家子夫は斎藤茂吉が湖上での小魚の慣れない[[踊り食い]]のせいか、料亭では酒を3杯ほど飲んで魚をあまり食さなかったことを記録している<ref>『斎藤茂吉随行記 下巻』、[[板垣家子夫]]、 古川書房、[[1983年]]、p.332</ref>。
 
[[大黒富治]]「おおどかにうみはにごりて高き波ひたによせくる我に向いて」、[[館岡栗山]]「舟つけば花に声あり三倉鼻」<ref>「あきた(通算10号)」、[[1963年]](昭和38年)、館岡栗山、p.38</ref>