「宋金戦争」の版間の差分

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宋側の官吏である[[秦檜]]は、1130年に「天下の争いがなくなることを望むならば、南人(宋)は江南に、北人(金)は華北に留まることが必要である」と平和的解決を提言したが{{sfn|Tao|2009|p=673}}、高宗は自らを北人だと考えており、最初はこの提案を拒否した。1132年には金が投獄した宋の外交官を解放し、1133年には宋が金の臣下になることを申し出るなど、和平に向けた態度が見られたが、和議は実現しなかった。金が要求した国境線を淮河から長江まで南下させるという条件は、両者が合意に至るにはあまりにも大きな障壁であった。
 
中国北部では抗金勢力の反乱が続いていたため、長江以南の金軍の作戦には支障が出ていた。戦争を長引かせたくない金は、新たに傀儡国家である[[劉斉|大斉]]を建国させた{{sfn|Franke|1994|p=230}}。漢民族の血を引く者が名目上の支配者となる斉が、反乱軍の不満分子の忠誠を集めることができると考え、また人材不足によって、華北全体を支配することは行政的にも不可能であったからであった。1129年の末期には、[[劉豫]]が金の[[太宗 (金)|太宗]]の寵愛を受けていた{{sfn|Franke|1994|p=230}}。劉豫は河北の宋人で、1128年に離反するまでは山東[[済南府]]知府を務めていた。1130年末、劉斉が成立し、金は劉豫を皇帝として即位させた{{sfn|Tao|2009|p=657}}。河北[[大名府]]は、北宋の首都であった開封に移るまで、劉斉の首都であった{{sfn|Franke|1994|pp=230-232}}。劉斉は徴兵制の導入、官僚制度の改革、率な徴税などを行い、また建国後7年間に亘って宋との戦争に充てた軍隊の大部分は劉斉から出された。
 
[[File:Four Generals of Song.jpg|thumb|right|450px|抗金の将を描いた南宋の絵画。(左から2番目が[[岳飛]]、4番目が[[張順]]、5番目が[[韓世忠]])]]