「康熙帝」の版間の差分

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そうした中、康熙42年([[1703年]])に胤礽の後ろ盾でもあった[[ソンゴトゥ]]がクーデターで失脚すると、胤礽は孤立して自暴自棄となった。康熙47年([[1708年]])秋、[[内蒙古]]に赴いていた際に、康熙帝は同行していた胤礽を跪かせ、泣きながら激しく叱責し、逮捕させた。康熙帝は、悲観のため[[不眠症]]となった。その後、北京への帰還の際に皇太子を正式に廃した。
 
胤礽が廃された後、皇長子の[[愛新覚羅胤禔|胤禔]]が皇八子の{{仮リンク|愛新覚羅胤禩|zh|允禩|label=胤禩}}を新たな皇太子に推薦した。しかし、胤禩が反胤礽の中心人物であったことを知り、康熙帝は怒って貝勒の爵位を取り上げた。さらに、皇三子の[[愛新覚羅胤祉|胤祉]]が、胤禔は[[ラマ (チベット)|ラマ]]に頼んで廃太子に[[呪詛]]を仕掛けたと直訴した。調べたところ、廃太子の部屋に呪詛の証拠が見つかり、胤禔は群王の爵位を取り上げられ、監禁された。またこの同年には、明の皇統の生き残りである75歳の[[朱慈煥]]を捕え、「謀反を起こした事実はないが、謀反の心を抱かなかったことはないとはいえない(朱某雖無謀反之事,未嘗無謀反之心)」との理由から[[凌遅刑]]に、その一族を皆殺しの刑に処して、明の皇統を根絶やしにしている<ref>『南明史』</ref>
 
その後、胤礽に会うと別人のように穏やかになっていたので、康熙帝は康熙48年(1709年)春に再び胤礽を皇太子に立てた。しかし、胤礽が諸大臣との宴会を通じて皇太子党なるものを築いたことを知ると、康熙帝は歩軍総領トホチらを処刑し、胤礽は康熙51年([[1712年]])に再び廃立、幽閉された。これ以後、後継者問題に懲りた康熙帝は二度と皇太子を立てなかった<ref>『康熙帝の手紙』190P</ref>。
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*生活は質素であり、食事は普通のもので満足した。また離宮を建設した時、豪勢さを反映するものは見当たらず、質素であった。衣服も豹の毛皮と一般的に用いられるものだった<ref>『康熙帝伝』57P</ref>。
*皇子の教育にも熱心であり、歩き始めるとすぐに馬術・弓術・銃術を教えた。また、皇子たちが過保護にされるのを好まず、労働・労苦を与えて、粗悪な肉類を食べるように躾けた<ref>『康熙帝伝』136P</ref>。
*[[1708年]]に明の皇統の生き残りである75歳の[[朱慈煥]]に対して、「謀反を起こした事実はないが、謀反の心を抱かなかったことはないとはいえない(朱某雖無謀反之事,未嘗無謀反之心)」と判断して、逮捕した挙句に朱慈煥本人を[[凌遅刑]]に、その一族を皆殺しの刑に処して、明の皇統を根絶やしにした<ref>『南明史』</ref>。
 
== 后妃 ==