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江川の用件は伊豆韮崎の豪商で吹替金銀引替御用という役目を勤める多田家が4,823両の借金と1,389両の上納金不足で幕府御用からもはずされ破綻しかかっているというのであった。尊徳は多田家救済に、報徳金1,389両を多田家が持つ田畑42町5反のうちの31町7反を担保に貸付け、畑から上がる小作料のうちから年々416俵ずつを年賦償還にあてるというかたちで行われた。
(「二宮尊徳」守屋志郎著248~250頁要約)
 
== 即如院来報徳全居士 ==
 
 安政3年(1856)11月4日の夜、小田原城下の鍋弦小路(なべつるこうじ)(小田原駅新幹線口近く)に住む藩士山崎金五右衛門のところで、しめやかに法要が営まれた。この日は10月20日に逝去した二宮金次郎尊徳の、二七日(ふたなぬか)にあたる。
 尊徳重態の知らせが栢山に届いて、実弟二宮三郎左衛門と波子夫人の伯父古沢九右衛門が急きょ今市に向かったのが10月14日ごろ。三郎左衛門らは19日に今市に着いて、久々の弟との対面に尊徳も喜んだが、明くる朝、容態が急変して亡くなった。22日通夜、23日葬儀で、如来寺に葬られた。26日の初七日を済ませた三郎左衛門らは、翌日早朝帰途についた。江戸・小田原への公私の訃報を何十通も預かっていた。小田原帰着が11月3日、山崎金五右衛門は涙にむせんだ。17年前の天保10年、小田原仕法の中堅要員として藩から野州修行を命じられ、「決心書」を作り、50両を仕法のために差し出し、生涯実行を誓った。小田原仕法は数年後廃止され、尊徳との往来も禁じられている。せめて小田原で有縁の人をひそかに呼んで法事を行い冥福を祈ろうと思いついた。
 山崎金五右衛門は、自分の菩提寺である浄土宗の三乗寺へおもむいて、住職に頼むと快く承知してくれた。問題は故人の法号で、訃報にはそれが載っていなかった。そこで如来寺にちなんで「如来院様」はどうかと、聞くと住職は宗門では遠慮の字でだという。翌日の夕方、住職は弟子一人連れて山崎の屋敷に来て「今日二七日御相当 即如院来報徳全居士」ならどうかという。山崎は先に来ていた豊田正作と相談の上、了承して法事を営んだ。 
 参会者は10名程度。豊田正作(66)、栗原祐造、石川兼右衛門、青木武右衛門(75)、清水助次郎という微禄の者も先生に特にお世話になったからと参加した。久野村の政蔵、下新田の小八もやってきた。重役の中、伊谷治部右衛門が、仏前に餅菓子と届けた。
 鵜澤作右衛門は前々年の11月すでに没し、嗣子勇之助も前年10月30歳の若さで亡くなっていた。同家縁由の大高郡内(64)が「作右衛門・勇之助の亡霊を兼ね候心得」で参列した。豊田正作はこの法事の席で一句詠んだ。
 ありありと道の光るや冬の月 
 「誠明院功誉報徳中正居士」という正式の法名はまもなく知れ、三乗寺は7月7日の回向をそれで行った。
 
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