「グレート・トレック」の版間の差分

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== 前史 ==
[[17世紀]]に[[オランダ]]が[[ケープ植民地]]を拓いて以降、この地に移住する[[オランダ人]]は少しずつ増えていき、やがて彼らはボーア人という民族集団を形成するようになる。ボーア人たちは[[ケープタウン]]を根拠地とし、先住の[[コイコイ人]]{{efn|当時、ホッテントット人とばれ、後に[[称はホッテントット条例]]の対象となる) ({{Lang|en|Hottentot}})。}}追い散ら駆逐しながら内陸へと進出していった。ボーア人の多くは広大な農園を持ち、多くの[[奴隷]]を使用しながら農園主として生活していた。当時、ケープ植民地はまだ十分に発展していなかったこともあり、農園の多くは自給自足を旨とし、独立性が高かった。この地は[[オランダ東インド会社]]の[[植民地]]であったが、会社の支配力は弱く、ボーア人は規制を受けず自由に内陸部へと進出していくことができた。[[1770年代]]には、ケープ植民地は[[グレート・フィッシュ川]]の南岸にまで達していた。
 
しかし、[[1795年]]に[[ケープ植民地]]を占領した[[イギリス]]へ、[[ナポレオン戦争]]中の[[1812年]]に[[ケープ植民地]]が正式に譲渡される。イギリスは本国からの移民を推し進め、ボーア人たちは二級国民的な扱いを受けた。さらに、イギリスはボーア人の内陸への進出を好まず、近隣のアフリカ人諸民族を(ボーア人に比べれば)尊重する政策をとった。そのため、ボーア人の農園拡大は頭打ちとなった。また、ケープタウン周辺には軍事力を持たない[[コイサン人]]が居住していたため簡単に勢力を拡大することができたが、グレート・フィッシュ川以北には軍事力を持つ[[バントゥー系]]諸民族が居住しており、一植民者が簡単に勢力を拡大することなどできるものではなかった。すでにオランダ領時代の[[1779年]]にはバントゥー系諸民族のうち最南の民族である[[コーサ人]]とボーア人({{仮リンク|トレック・ボーア|en|Trekboer}})の間で{{仮リンク|コーサ戦争|en|Xhosa Wars}}<ref>{{仮リンク|カフィール|en|Kaffir (racial term)}}戦争とも。黒人に対してカフィールという呼称が人種差別的かつ侮蔑的であるため、歴史的なコンテキスト以外では、通常はコーサ戦争が用いられる。</ref>が勃発し、[[1850年代]]まで断続的に戦闘が繰り返されることとなった。このようにして、ケープ植民地はグレート・フィッシュ川を北限として、以後60年に及び拡大ができなくなっていた。
 
そんな中、[[産業革命]]の影響を受けてイギリス本国で[[人権思想]]の普及や[[奴隷制度廃止運動|奴隷解放運動]]が起き、植民地でも[[宣教師]]を中心にアフリカ人の権利を拡大し、{{仮リンク|アフリカ人奴隷貿易|en|African slave trade|label=奴隷貿易}}を廃止する動き([[:en:Slave Trade Act 1807]])が出てきた。[[1809年]]に施行された[[{{仮リンク|ホッテントット条例]]({{lang-|en-short|The vagrancy and pass laws ofHottentot 1809Proclamation}}により、[[コイコイ人]]や黒人に居住を証明する[[身分証明書|パス]]の所持を義務づけていた(のちに[[パス法]]に引き継がれる)が、宣教師たちの運動により[[1828年]]に総督令50号が制定され、同条例は廃止されたため、ボーア人の間で深刻な労働力不足が起き<ref>「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p365</ref>、不満が高まった。さらに[[1833年]]には大英帝国全土において奴隷制が廃止され、不満は頂点に達した。この不満は、東部と西部によって温度差があった。ボーア人が多数を占め、商業の発達した西ケープでは大農園の経済に占める割合が低く、奴隷制の廃止にさほど打撃を受けなかったのに対し、点在する大農園が経済の中心となっている東ケープにおいては奴隷制廃止は死活問題となっていた。
 
== グラハムズタウン会議 ==