「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン」の版間の差分

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こうした会合がしばらく続いたが、やがてウィトゲンシュタインは、カルナップとファイグルに対しては、方法論や関心事だけでなく、気質的にも相容れないものがあると感じて、距離を置くようになる。こうして、ウィトゲンシュタインとウィーン学団との交流は、シュリックとワイスマンの二人に限られてしまうが、この二人とは後に『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』として記録がまとめられるほどの対話を重ねており、ワイスマンとは共著を出版する計画まで立てていた。しかし、ウィトゲンシュタインのケンブリッジ復帰後(次節参照)の[[1936年]]に、シュリックがウィーン大学構内で[[反ユダヤ主義|反ユダヤ主義者]]の学生に射殺される<ref group="注">シュリック自身はドイツ人だが、ユダヤ人に見えなくもない風貌をしていた。</ref> と、それきりウィトゲンシュタインとウィーン学団との交流は、一切断ち切られてしまう。
 
このウィーン学団との関係がまだ友好的に保たれていた[[1928年]]3月、ウィーンでオランダの数学者[[ライツェン・エヒベルトゥス・ヤン・ブラウワー]]が「数学・科学・言語」という題で[[数学的直観主義 (数学の哲学)]]に関する講演を行なった。ワイスマンとファイグルは、嫌がるウィトゲンシュタインを何とか説得して、この講演に出席させることに成功した<ref name="noe1999.38">[[#野家1999|野家 1999]]、38頁。</ref>。講演終了後、3人は近くの喫茶店へ入って数時間を過ごした。そのとき、突如ウィトゲンシュタインが哲学について雄弁に語りはじめた。そのときウィトゲンシュタインが語ったのは、後期の彼の思想の萌芽ともいえるものであり、「おそらくこれを契機としてウィトゲンシュタインは再び哲学者になったのだ」とファイグルは述べている。また、ウィトゲンシュタインは、同じ頃にケンブリッジの若い哲学者であり『論考』の英訳者でもある[[フランク・ラムゼイ (数学者)|フランク・ラムゼイ]]とも会って議論を重ねており、それを通じて次第に『論考』には重大な誤りがあるのではないかと考えるようになったことも哲学への関心を取り戻すきっかけとなっている。
 
ウィトゲンシュタインは、哲学研究に再び取り組む意思を固め、ストーンボロー邸の完成した[[1928年]]秋から、ケインズと手紙のやり取りを通してイギリスへ行く手筈を立て、[[1929年]][[1月18日]]にケインズの客として16年ぶりに[[ケンブリッジ大学]]へ足を踏み入れた。その日、ウィトゲンシュタインを出迎えたケインズは妻<!--ロシアのバレリーナ、リディア・ロポコーヴァ([[:en:Lydia Lopokova]])-->に宛てた手紙にこう書いた。