「ジョージ・H・ウィップル」の版間の差分

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ウィップルは[[ニューハンプシャー州]]アシュランドで、アシュレイ・クーパー・ウィップルとフランセス・アン・ホイトの子として内科医の家系に生まれた。彼は[[フィリップス・アカデミー]]および[[イェール大学]]で教育を受け、1900年に学士号を取った。その後[[ジョンズ・ホプキンス大学]]医学部に通い、1905年に医学博士号を取得した。卒業後は、[[パナマ運河]]建設中の1907年から1908年にかけて[[パナマ]]のアンコン病院に移るまで、ホプキンスで[[病理学]]者として働いた。[[ボルチモア]]に帰ってからは、1914年までジョンズ・ホプキンス大学の病理学研究室の助手、講師を引き継いだ。
 
1914年、ウィップルは[[カリフォルニア大学]]医学部の実験医学の教授になり、1920年から21年にかけては医学部の学部長を務めた。医学教育研究の草分けの[[エイブラハム・フレクスナー]]と[[ロチェスター大学]]の学長だったラッシュ・リーズの勧めで、1921年、彼は建設途中だったロチェスター大学医学部の学部長になった。ウィップルは1954年まで学部長職を務め、死ぬまでここに在籍した。大学関係者の多くがウィップルは素晴らしい教育者であるとみなしていた。1962年[[ジェシー・スティーヴンソン・コヴァレンコ・メダル]]受賞
 
1976年2月1日、[[肺炎]]のため[[ニューヨーク州]][[ロチェスター]]の病院にて死去。97歳<ref>訃報欄『朝日新聞』1976年(昭和51年)2月3日朝刊、13版、19面</ref>。