「エルヴィン・クリストッフェル」の版間の差分
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== 生涯 ==
クリストッフェルは、[[1829年]]11月10日に[[プロイセン王国]]のモンジョワ(Montjoie; 現在の[[モンシャウ]])で、布商人の子供として生まれた。彼ははじめ自宅で語学と数学の教育を受けたあと、[[ケルン]]
博士号取得後、クリストっフェルはモンジョワに戻り、その後3年間、学界から孤立して過ごした。しかしながら、彼は[[ベルンハルト・リーマン]]、[[ペーター・グスタフ・ディリクレ|ディリクレ]]、そして[[オーギュスタン=ルイ・コーシー]]の本で数学(特に数理物理学)は学び続けていた。また研究も続けており、微分幾何学に関する2つの論文を発表した<ref name=Butzer />。
1859年には、クリストッフェルはベルリンに戻り、教授資格(habilitation)を取得し、ベルリン大学で員外講師(Privatdozent)となった。1862年には[[リヒャルト・デーデキント]]が[[チューリッヒ工科大学]]を去ったことによって空いたポストを得た。彼はわずか7年前に設立された若い研究機関に新しい数学の協会を組織し、高く評価された。彼はまた研究を発表することを継続し、1868年には[[プロイセン科学アカデミー]]と [[ミラノ]]のIstituto Lombardoの準会員に選出された。1869年、クリストッフェルは工業専門学校(Gewerbeakademie;現在の[[ベルリン工科大学]]の一部)の教授としてベルリンに戻り、[[チューリッヒ工科大学]]の彼の後任としては[[ヘルマン・アマンドゥス・シュヴァルツ]]が就いた。しかしながら、極めて接近している[[ベルリン大学]]との激しい競争により、工業専門学校は高等数学コースを維持するための十分な学生を引きつけることができず、クリストッフェルは3年後にまたベルリンを離れた<ref name=Butzer/>。
1872年、クリストッフェルは[[ストラスブール大学]]で教授となった。ストラスブール大学は、[[普仏戦争]]で[[プロシア]]が[[アルザス=ロレーヌ]]を併合した後、近代的な大学に再編された数世紀に渡る歴史をもつ研究機関である。クリストッフェルは、同僚の[[:en:Theodor Reye|Theodor Reye]]と共に、ストラトブールで信頼性の高い数学科を作った。彼は研究を発表し続けており、[[藤沢利喜太郎]]、[[:en:Ludwig Maurer|Ludwig Maurer]]、[[:en:Paul Epstein|Paul Epstein]]を含む数人の博士課程学生がいた。クリストっフェルは1894年にストラスブール大学を退職し、後任には[[:en:Heinrich Martin Weber|Heinrich Martin Weber]]が就いた<ref name=Butzer/>。引退後も彼は仕事と出版を続け、最後の論文は死の直前に完成し、死後に出版された<ref name=Windelband/>。
クリストッフェルは1900年3月15日にストラスブールで亡くなった。彼は一度も結婚したことがなく、残った家族もいなかった<ref name=Butzer/>。
== 業績 ==
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== 脚注 ==
<references />
== 参考文献 ==
* {{cite book | author=P.L. Butzer & F. Feher | title=E.B. Christoffel: The Influence of His Work on Mathematics and the Physical Sciences | publisher=Birkhäuser Verlag]| year=1981 | ISBN=3-7643-1162-2 }}.
* {{MacTutor Biography|id=Christoffel}}
* {{MathGenealogy|id=45101}}
{{Scientist-stub}}
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