「モホリ=ナジ・ラースロー」の版間の差分

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| alt =
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| birth_date = [[1895年]][[7月20日]] {{HUN}} <br />バーチ・キシュクン県 バーチボルショード
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1895|7|20|1946|11|24}}
| nationality = {{HUN}}
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1929年2月には、ベルリンの[[クロル歌劇場]]で[[オッフェンバック]]作曲の歌劇『[[ホフマン物語]]』(指揮:[[クレンペラー]])の舞台美術を担当した<ref>『Otto Klemperer, his life and times』vol 1, P. Heyworth, Cambridge University Press, 1983 pp. 284-6</ref>。
 
1933年、ナチスが政権を獲得したため、その後はアムステルダム、ロンドンで美術評論やデザイン活動を行ない<ref name="asacame196708-208" />、1937年に米国へ亡命し、[[シカゴ]]にニュー・バウハウスを設立し、バウハウスのデザイン教育理念を新天地アメリカに根付かせようと奔走、1944年には[[シカゴデザイン研究所]]<!-- 名前が違う -->([[:en:IIT Institute of Design|en]])に発展させた。ここでの教育方式は[[イリノイ工科大学]]<!-- イリノイ工業大学ではない -->に引き継がれ、[[石元泰博]]をはじめ日本人も多く学んだ<ref name="asacame196708-208" />。彼はこの地で志半ばで[[白血病]]により死去することとなったが、理念は現在まで残っている。{{Main|ニュー・バウハウス}}
 
写真家としては、前衛的かつ実験的な[[フォトグラム]]や[[フォトモンタージュ]]などの写真作品を多く制作し、ドイツ[[新興写真]](ノイエ・フォト)の雄の1人として世界に名を馳せた。バウハウスにおいて写真の分野が隆盛を誇ることができたのも、モホリ=ナジによる積極的な作品の発表に拠るところが大きい。
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ナジの所説の影響は[[アンリ・カルティエ=ブレッソン]]の初期作品、[[エルンスト・B・ハース]]による写真の創造性と詩の関連における思考に見られる<ref name="asacame196708-208" />。
 
1946年11月24日、白血病により死去。
 
現在、ハンガリーには彼の名前を冠した国立モホリ=ナジ芸術大学([[:hu:Moholy-Nagy Művészeti Egyetem|Moholy-Nagy Művészeti Egyetem]] )がある。