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日本共産党の方針に従い、学業を捨て山村工作隊に参加した[[大学生]]もいた。参加者は[[日本共産党第6回全国協議会|6全協]]の方針転換に、深い絶望を味わった。また、これに参加した者の回想は、一部新左翼機関誌に掲載されてもいる。[[柴田翔]]の小説『されどわれらが日々――』(文藝春秋新社、1964年)の背景にも山村工作隊、6全協がある。
 
山村工作隊への参加は、[[所感派]]路線をとる共産党指導部の指名によるものであったが、一部は旧[[国際派 (日本共産党)|国際派]]学生への懲罰的人事として行われたという証言がある。また、メンバーの中には武装闘争方針を絵空事と考え、支持できないままに活動する者もいた<ref>由井誓 『由井誓遺稿・回想』 由井誓追悼集刊行会編、新制作社、1987年11月。</ref><ref>[[土本典昭]] 「「小河内山村工作隊」の記」『映画は生きものの仕事である』、[[未來社]]、1974年。</ref>。武装路線と大衆路線が混在した山村工作隊と、武力闘争に純化した独立遊撃隊、中核自衛隊等のY組織(軍事委員会)とでは、目的や指令系統が違っていたと考えられる。
 
山村工作隊の方針は、地域の実情と遊離したもので、住民から工作隊への支持は得られなかった。例外は、派遣された医師班による巡回診療で、多くの[[無医村]]であった活動地域で、好感を持って受け止められた。封建地主を攻撃する紙芝居などの芸術文化活動は、住民に受け入れられることなく、[[しんぶん赤旗|新聞]]や情宣ビラは、そのまま[[日本の警察官|警察官]]に渡された。