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'''藤木 幸太郎'''(ふじき こうたろう、[[1892年]][[2月18日]] - [[1980年]][[11月]])は、[[日本]]の[[実業家]]。[[藤木企業]]創立者。一時期、博徒の親分として横浜を牛耳ったが、ヤクザを卒業して堅気の社長に戻った{{Sfn|岩井|1963|pp=246}}。戦後に横浜復興を遅らせた9割にも及ぶ港湾施設の接収にも耐え、講和発効後に業界団体の長に就任。[[港湾労働法]]の成立、諸制度の改革、近代化に尽力{{Sfn|県百科事典|1983|pp=737}}。横浜港の歴史と歩んだところから、ミナトのおやじと呼ばれた。
 
== 来歴 ==
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1925年1月、酒井信太郎の提唱により、神戸の鶴井寿太郎、藤原光次郎と結び、親睦団体の「鶴酒藤兄弟会」が結成された。全国の港湾業者は鶴酒藤の傘下に入った{{Sfn|組織総覧|2014|pp=1014}}。
 
一時期、博徒の親分として横浜を牛耳ったが、ヤクザを卒業して堅気の社長に戻った{{Sfn|岩井|1963|pp=246}}。
 
1941年10月、戦時統合により横浜船舶荷役株式会社が発足したが終戦後の1946年9月に解散。統合前の組から新会社が数社発足。藤木組も1947年7月25日に法人組織として「株式会社藤木組」として設立、同年11月に「藤木企業株式会社」に改められた{{Sfn|藤木企業|1997|pp=10-16}}。