「フランツ・ブレンターノ」の版間の差分

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フランツ・ブレンターノは、1838年に、[[バイエルン王国]][[アシャフェンブルク]]のイタリア出身のドイツの名門ブレンターノ家の子として、[[ボッパルト]]付近、[[ライン川]]沿岸マリーエンブルクで生まれた。[[ロマン主義#ドイツ|ドイツ・ロマン主義]]の代表的な小説家[[クレメンス・ブレンターノ]]は伯父、有名な女流詩人[[ベッティーナ・フォン・アルニム]]は伯母である。また、弟[[ルヨ・ブレンターノ]]は[[経済学者]]としてその名を残している。父クリスティアン・ブレンターノはカトリックの宗教的な著述家であったという。父は早くに死んだので、フランツはもっぱらその母エミリエによって、敬虔な[[カトリック教会|カトリック]]の精神的雰囲気の内で育てられた<ref>[[#世界の名著51(1970)|世界の名著51(1970)]]p.8</ref>。
 
[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン]]・[[ユリウス・マクシミリアン大学ヴュルツブルク|ヴュルツブルク]]・[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン]]・[[ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学|ミュンスター]]の各大学で[[哲学]]と[[神学]]を学び、[[1862年]]に[[エバーハルト・カール大学テュービンゲン|テュービンゲン大学]]で学位取得した。[[1864年]]にカトリックの[[司祭]]に奉職し、[[1866年]]に[[ヴュルツブルク大学]]で教授資格を取得する。しかし、司祭職に関しては、哲学的動機により、カトリックの教義に疑念を持つようになり、[[1873年]]に辞任した。これが波紋となり、ヴュルツブルク大学も去り、[[フランツ・ヨーゼフ1世]](在位:1848年 - 1916年)帝政下の[[1874年]]に[[ウィーン大学]]へと移る。この年に、「経験的立場からの心理学」を出版。[[1880年]]には、ウィーン大学の教授を辞し、同大の私講師になった。1884年から1886年にかけては[[エトムント・フッサール|フッサール]]がブレンターノの講義を聞きに来ていた。しかし、[[1895年]]には教職を辞して<ref>このときちょうど入れ替わるようにプラハ大学からウィーン大学哲学教授に就任したのが1885年刊行の『感覚の分析』で知られていた[[エルンスト・マッハ]]であった。</ref>、[[フィレンツェ]]に移住した。この年、ミュンヘンにおける第三回国際心理学会に出席し『感覚論について』という講演を行った。[[1914年]]に勃発した[[第一次世界大戦]]を避け、[[チューリッヒ]]へ移住し、同地で1917年に没した。79歳だった。
 
== 思想 ==
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</ref>。ブレンターノの仕事は、[[ケンブリッジ大学]]の[[ジョージ・エドワード・ムーア]]と[[バートランド・ラッセル]]の教師であったジョージ・スタウト([[:en:George Stout | George Stout]])<ref name=Albertazzi>Liliana Albertazzi, ''Immanent Realism: An Introduction to Brentano'', Springer, 2006, p. 321.</ref>にも影響を与えた<ref>Maria van der Schaar, ''G. F. Stout and the Psychological Origins of Analytic Philosophy'', Springer, 2013, p. viii.</ref>。
 
分析哲学者の立場から、哲学における[[分析哲学]]派と[[現象学]]派の間の愚かしい対立を埋めることは有意義であると考え、現存し分析哲学者にも認められている唯一の心理主義的様相を有する理論である[[ライツェン・エヒベルトゥス・ヤン・ブラウワー]]の[[直観主義 (数学の哲学)|直観主義]]を題材に非常に回りくどい論理を展開した[[マイケル・ダメット]]は、分析哲学と現象学の起源がフランツ・ブレンターノあることを暗に示した<ref>[[#ダメット(1993)|ダメット(1993)]]</ref>。
 
定理証明支援系言語[[マイケル・ダメット]]から基礎理論としても用い影響が見られる[[ペール・マルティン=レーフ]]は、自身分析哲学的な[[直観主義型理論]]において、判断形式(judgement form)道具立ての考え方は中で ブレンターノの判断理論的な判断形式(judgement form)影響が見られると言われる道具立てを導入した
 
== 著作 ==