「富田城 (伊勢国)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
三塚 (会話 | 投稿記録)
m →‎歴史: links修正:現在の蒔田城横浜市の記事のため
m →‎歴史: replaced: 修理太夫 → 修理大夫
27行目:
 
== 歴史 ==
富田城の前身は『[[吾妻鏡]]』によると、[[1204年]]([[元久]]元年)の[[三日平氏の乱 (鎌倉時代)|三日平氏の乱]]の際に[[伊勢平氏]]の一党である[[進士基度|進士三郎基度]]が、[[富田六郷]]の東西富田の地に築いた居館とされる。その後[[1446年]]([[文安]]3年)、[[古文書]]に[[南部行直|南部三郎行直]]の子と伝わる[[南部頼村|南部修理夫頼村]]が、[[信濃国]]野沢庄より当地に移住して富田城を築いた。頼村は最初は[[室町幕府]]に仕え、その後は伊勢の[[国司]]の[[北畠家]]に服属した。
 
南部氏は、代々富田六郷の東富田村・西富田村を統治して、同地の神仏を尊び地域の地場産業を興して富田発展の基礎を築き、領民から親しまれる領主だった。周辺の富洲原地区の[[富田一色]]村・[[松原地区 (四日市市)|松原村]]・[[天ヶ須賀 (四日市市)|天ヶ須賀地域]]にも影響力があった。近隣の蒔田村には蒔田氏が統治する[[蒔田城 (伊勢国)]]、同じ富田地区の茂福村には[[朝倉氏]]の[[茂福城]]などがあり、茂福城の朝倉氏と[[羽津城]]の領主・田原氏との間では[[茂福合戦]]があった。