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[[応永]]23年([[1416年]])には関東で[[上杉禅秀の乱]]が発生すると、甲斐守護・[[武田信満]]は禅秀方に属し、[[鎌倉公方]][[足利持氏]]によって討伐され、応永24年2月6日に[[天目山]]において滅亡する<ref name="p12">平山(2011)、p.12</ref>。
 
『[[一蓮寺|一蓮寺過去帳]]』には「'''応永廿四年五月廿五日 由阿弥陀仏 修理夫満春 号穴山'''」と記されることから、これを穴山満春の[[命日]]と理解して満春は信満とともに滅亡したと考えられていた<ref name="p12"/>。一方、佐藤八郎は武田家諸系図に満春が嫡子・[[武田信重|信重]]とともに禅秀の乱に加担せず、高野山において出家していており、『一蓮寺過去帳』の記載は信本の[[逆修供養]]の日付であると指摘した<ref>『韮崎市誌』</ref><ref>平山(2011)、p.12 - 13</ref>。
 
『[[鎌倉大草紙]]』によれば、信満の滅亡後に守護不在状態となっていた甲斐では、足利持氏の支援を得た国人の[[逸見有直]]が勢力を持ち、足利持氏は有直の甲斐守護補任を推進した。これに対して室町幕府では、将軍[[足利義持]]が満春を[[還俗]]させ武田信元と改名させ、甲斐守護・武田氏を継承させた<ref name="p13">平山(2011)、p.13</ref>。